北洋政府と軍閥
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1924年9月、江浙戦争に介入する形で第二次奉直戦争が勃発。10月23日、馮玉祥らが北京政変を起こし、奉天派と馮玉祥軍は呉佩孚率いる直隷軍を挟撃、直隷派は壊滅した。国共合作を成し遂げた国民革命軍も華北へ進撃し、孫文は北京に入るも1925年3月12日に病没。臨時執政・段祺瑞が内閣を主宰することになった。 孫文の抑えが効かなくなった国民党内部で第一次国共合作に対する不満が噴出し内部崩壊してゆく。その状況下で8月20日、国民党内で容共左派の路線をとる廖仲愷が暗殺され、その政敵だった右派の胡漢民も暗殺の首謀者と疑われて失脚。11月23日、西山会議派が分裂。1926年3月20日、中山艦事件で蔣介石が国民党内の中国共産党員弾圧を開始。 一方、臨時総統の段祺瑞を支えるべき張作霖も馮玉祥と対立しており、1926年3月18日、日本と欧米各国が段祺瑞に馮玉祥の排除を要求し、段祺瑞が北京でこの要求に反発する民衆を弾圧した三・一八虐殺事件が起こった。1926年4月20日、段祺瑞と賈徳耀が事件の責任をとり辞任。その後、中華民国の首相は目紛しく政権交代した。 湖北省へ逃れていた呉佩孚が中央政界への復帰をはかり、張作霖や張宗昌と連合して馮玉祥包囲網である討赤聯軍を組織し、北京進攻した。1926年7月1日、呉佩孚は、第一次北伐を開始した蔣介石の国民政府軍に敗れ、四川省へと逃れた。
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