北洋軍へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/12/23 09:25 UTC 版)
同治9年(1870年)の天津教案後の混乱で曽国藩が直隷総督を離任すると、その後任として李鴻章が直隷総督に任命された。李鴻章が天津に赴任すると、その団練である淮軍も拠点を天津に移した。直隷総督の軍事的権威の根幹となったのである。これ以降も淮軍は、朝鮮の壬午事変(光緒8年、1882年)・清仏戦争(光緒10年、1884年)といった清王朝の主要な紛争に派遣された。李鴻章が私的に集めた団練ながら、清朝屈指の地方軍だったのである。 光緒20年(1894年)の日清戦争に際して当初李鴻章は開戦に消極的だったが、開戦すると淮軍がその主力を担い、淮軍は壊滅的な打撃を受けて解散する。これが淮軍の終焉である。 その後、淮軍に代わる軍隊の必要性を痛感した清朝は、李鴻章幕下の胡燏棻に命じて改めて天津で洋式軍隊の編成を行った。定武軍である。ここには旧淮軍の将兵も多数参加した。失脚した李鴻章の後を継いで直隷総督となった王文韶は文官であったため、光緒21年(1895年)10月に定武軍は李鴻章の軍事的な後継者である袁世凱の管轄となり、さらに新建陸軍と改称する。この淮軍からの流れを汲んだ新建陸軍が袁世凱の軍事的根拠となり、後の北洋軍閥の形成へと繋がっていく。
※この「北洋軍へ」の解説は、「淮軍」の解説の一部です。
「北洋軍へ」を含む「淮軍」の記事については、「淮軍」の概要を参照ください。
- 北洋軍へのページへのリンク