北洋軍閥からの分派
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/05/16 09:36 UTC 版)
袁世凱の存命中は結束していた北洋軍閥だが、1916年6月に袁世凱が病死して以降は徐々に政策の違いから分裂していく。その中で特に中央政界に位置して権力を保ったのが、日本の支持を得ていた段祺瑞の安徽派であった。段祺瑞は国務総理兼陸軍総長を務めていた。 当初は「グループの違い」程度のものだったが、1917年9月に孫文が広東軍政府を組織して中華民国からの独立を宣言すると、その対応で国論が二分する。段祺瑞は武力征伐を主張し、大総統代行だった直隷派の馮国璋はあくまで平和的解決を主張した。結局段祺瑞は、袁世凱死後の東北地方を纏め上げた張作霖率いる奉天派(奉系)と連合して南征を強行、さらに1918年の新国会(安福国会)での多数派工作にも成功して、馮国璋を大総統の地位から引きずり下ろした。これが原因で安徽派と直隷派の間にわだかまりが残った。
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