北洋銀行への営業譲渡
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 23:48 UTC 版)
「北海道拓殖銀行」の記事における「北洋銀行への営業譲渡」の解説
このころ大蔵省とは別に日銀サイドが、元日銀考査局次長の武井正直が当時頭取を務めていた北洋銀行への譲渡を促したことが後押しとなり、最終的に拓銀は北洋に営業譲渡することを決定した。大蔵省と日銀の縄張り争い、そして拓銀首脳の見栄と意地が北海道経済の先行きを決定するかたちとなった。すなわち、武井頭取の「鶴の一声」で、北洋銀行が北海道経済を漁夫の利で得たことになる。 11月15日午後3時30分より、拓銀はパレスホテルにて臨時取締役会を開催し、営業継続断念を全会一致で決定した。その結果、1998年(平成10年)11月10日をもって営業を終了し、従業員・行員数は拓銀の1/3、総資産額は1/5、資本金に至っては1/10程度しかない北海道で第3位の銀行だった第二地銀の北洋銀行に道内営業を譲渡することとなった。なお、この時点では本州の店舗についての具体的な決定はなされていない。 北洋銀行サイドに営業譲渡の件が伝えられたのは、東京にて拓銀取締役会が開催されるのに先立つ11月15日の昼前だった。最初にコンタクトを受けた高向巖副頭取(後の頭取・札幌北洋HD社長を経て、現在は北洋銀・札幌北洋HD会長)は、土曜日で休日だったことから妻と連れ立って自宅から外出間際だった。一報を受けるなり、高向はすぐに札幌市内で開催される講演会の開会挨拶に向かっていた武井頭取の自動車電話にコンタクトを取り、講演会場に急行した。武井頭取は挨拶を終えるなり、直ちに会場の公衆電話から4,500円分のテレホンカードを使って日銀に連絡を取ったというエピソードが、いかに切迫した状況だったかを物語っている。武井ら北洋首脳陣が拓銀営業譲受を決断したのはその夕方、北洋銀行本店4階の役員応接室でのことだった。 武井は拓銀の営業譲受に際して、「法人格としての拓銀との合併はしないこと」、「日銀特融及び預金保険機構の資金供給による取り付け騒ぎへの対応」、「北洋銀行の引受は道内のみ」を条件とした。 11月17日午前8時、道内分の拓銀営業譲受を機関決定する北洋銀行の取締役会が開催された。拓銀の営業譲渡発表は目前に迫っており、時間的余裕は全くなかった。第二地銀が都市銀行を救済するという前代未聞の事態にあたり、武井頭取は取締役会開会において「議事録に反対意見が記録されていれば株主代表訴訟では免責される。反対するなら正直に反対して欲しい」と述べ、役員ひとりひとりに意見を求めたが、反対意見は皆無だったとされる。また、後に拓銀営業譲受を不安がる行員向けの説明会で、武井頭取は「相手が都銀だったからといって(第二地銀である)自分たちを卑下する必要は全くない。何故なら拓銀は無能だから潰れたんだ」と語っている。
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