反袁世凱の活動
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富裕な家に生まれる。伝統的な教育を受け、若くして秀才となった。しかし1901年(光緒27年)、広東高等学堂に入学し、以後は西洋型教育を受けている。まもなく北京法政専門学校に入学した。卒業後は広州に戻り、『広東報』の主筆となる。1908年(光緒34年)、広東省咨議局議員となり、立憲派として活動した。 中華民国成立後の1912年(民国元年)、臨時参議院参議員に当選した。同年、宋教仁率いる国民党が成立すると、楊永泰もこれに加入した。1914年(民国3年)、袁世凱の命令により国会が停止されると、楊は上海に移る。『正誼雑誌』を創刊して、反袁の主張を宣伝した。同年7月、黄興、李根源、陳独秀、鄒魯らとともに欧事研究会を組織した。これは、孫文(孫中山)らの中華革命党とともに反袁の主要団体となった。 1915年(民国4年)8月、袁世凱が皇帝即位を画策すると、楊永泰、谷鍾秀らは反袁の共和維持会を組織する。さらに10月には、『中華新報』を創刊して、反袁の宣伝をより強化した。楊らの言論活動は、同年12月の護国戦争(第三革命)において世論喚起の役割を果たし、護国軍に対する重要な側面支援となった。
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反袁世凱の活動
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1912年(民国元年)1月、孫文の臨時大総統就任とともに、居正は内務次長(代理内務総長)に就任した。しかし袁世凱が後任の臨時大総統となると、居正は辞任した。その後、宋教仁率いる国民党で活動している。1913年(民国2年)3月に宋教仁が暗殺されると、居正は孫文の下に戻り、二次革命(第二革命)に参加する。居正は上海呉淞砲台総司令として戦ったが、敗北して日本に亡命した。 日本亡命後の1914年(民国3年)6月、孫文が組織した中華革命党に居正は加入し、党務部長に任命された。9月より、赤坂の頭山満邸にて方略研究会に参加。1915年(民国4年)晩夏、東京にて各部長を招集して会議が行われ、中国国内に中華革命軍東南・東北・西北・西南4個軍の設立を計画。居正は中華革命軍東北軍総司令に命ぜられる。 同年冬、孫文の命により居正は大連に戻り、反袁世凱活動を秘密裏に展開する。護国戦争(第三革命)勃発後の1916年(民国5年)2月、孫文の指示で青島に赴き、中華革命軍東北軍組織の準備に取り掛かる。3月13日、正式に中華革命軍東北軍を組織して総司令となり、総司令部を八幡町の旧ドイツ総督邸宅(中国語版)に設置、参謀長に許崇智・萱野長知、2個本隊と6個支隊で構成されていた。 5月4日、ついに兵を挙げ、反袁世凱の軍事活動を山東省で展開した。第1支隊を以て周村を占領、続いて第1本隊および3個支隊を以て張樹元率いる北洋第5師が防備する濰県城を攻めた。この戦闘で日本兵や居留民が巻き添えを受け死傷者が出たため、張樹元は歩兵第40連隊長石浦謙二郎大佐より抗議を受ける。この問題は日中間の外交問題に発展したが、結局補給を絶たれた張樹元は革命軍に屈し、15日に革命軍との和議に署名。濰県城は23日に明け渡された。 6月6日、袁世凱が死去すると和睦の機運が起こりつつあった。しかし、張懐芝はそれに乗じて安丘・臨朐両県を再占領し、革命運動も激化していた。 そんな中、7月から中華革命軍東北軍の指揮下に投入された華僑義勇団飛機隊(管理主任:胡漢堅)は、滋賀県八日市町の中華革命党航空学校卒業生らと坂本寿一・立花了観ら日本人教官9名を含む87名の人員、梅屋庄吉の出資で購入したカーチス JN-4 ジェニー(英語版)、J-5、モラーヌ・ソルニエ G型「翦風号」各1機1隊の3隊で構成され、再び北洋軍の手に渡った濰県城に宣伝ビラを撒くほか、スリーキャッスルの空き缶にダイナマイトを積めて投擲するという原始的な爆撃を行った。飛行機がまだ珍しかった当時、これらの北洋軍への心理的影響は大きく、4、5回の爆撃ののち北洋軍より濰県城からの撤退を条件に爆撃をやめるよう申し出を受けた。 9月21日、山東軍務会弁の曲同豊(中国語版)中将と講和を結ぶ。12月14日、中華革命軍東北軍を解散。
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反袁世凱の活動
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1912年(民国元年)、林虎は江西都督李烈鈞の下に移り、江西陸軍第1師の旅長に任命された。翌年、李烈鈞が袁世凱打倒のための二次革命(第二革命)に参加すると、林は江西討袁軍右翼総司令としてこれに従う。林らは緒戦で善戦したが、最後は物量で勝る北京政府軍に敗北し、林は日本に亡命した。 同年11月、林虎は東京で孫文(孫中山)と対面し、中華革命党にも参加した。また、李烈鈞・柏文尉・黄郛らと法政学校を創立し、寺尾亨を校長として擁いた。さらに、大森に「浩然廬」を創設し、日本に亡命してきた革命派士官を受け入れる機関とした。1914年(民国3年)、林は章士釗・李根源らと欧事研究会を組織した。その後、熊克武らとともにシンガポールへ向かい、黄興らと反袁世凱活動に取り組んだ。 その後、林虎は鈕永建とともに広西省へ戻り、広西将軍陸栄廷との交渉を持つ。これにより、陸の反袁決起に手応えをつかんだ林虎は、雲南の蔡鍔・李烈鈞らと連絡をとっている。1915年(民国4年)12月、雲南省から護国戦争(第三革命)が勃発し、陸も後にこれに呼応した。
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