反西洋・反近代・反合理化
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/05 10:09 UTC 版)
「人生の意義」の記事における「反西洋・反近代・反合理化」の解説
バード大学教授イアン・ブルマおよびヘブライ大学名誉教授アヴィシャイ・マルガリートによれば、 暖かい人間の絆が蘇り、人生はもう一度深い意味を持ち、人々は信頼を思い出す という類の主張をした事例として、都市(バビロン)を戒めた一神教(ユダヤ教・キリスト教・イスラム)がまず挙げられる。このような主張は、ジハード戦士をはじめとするイスラム過激派や、毛沢東主義政権等の全体主義者も共通して行っている。近代の資本主義社会(市民社会)は、西欧とアメリカを中心に建設され広まったが、そうした民営的・民主的な近代社会に対抗した人々は「田舎に対する都市の勝利」を、概念上で「都市に対する田舎の勝利」へと反転させ、 資本主義による疎外 都市による退廃 利己的な個人主義 冷酷な理性 近代的な無秩序 西洋帝国主義 等からの脱出を約束した。ただし、近代西洋から広まった合理的産業都市に敵対したり嫉妬・憎悪を感じたりする人々というのは、都市の生活がどんなものかを想像することさえ難しい田舎の住民・第一次産業従事者などではない。むしろ、都市生活からもたらされるイメージや商品を身近に感じたり消費したりしている都会人・知識人・学者などだった。20世紀のイスラム思想家・哲学者で最も影響力があった一人のサイイド・クトゥブによると、近代における人生や社会は「分割」されてしまっており、その原因は「経済競争(利己的な野心)」である。 「社会的分業」も参照 解決策としてクトゥブは イスラム教の生き方でのみ人間は他の人間への隷属から解放される。そして神の崇拝だけに専心し、神からのみ指導を受け、神の御前にだけひれ伏すようになる。 と述べた。広範な政治活動を巻き起こしたイスラム哲学者・神学者としてクトゥヴ、サイード・ムハマド・タレカニ、アブララ・マウドゥディなどが居り、彼らは出身国や宗派が異なっていても、同じような世界観を共有していた。イスラム、特にイスラム過激主義では、唯一神(アッラーフ)の性質である「神の単一性」(タウヒード)が、「イスラム信仰者の共同体(ウンマ)の単一性」として解釈されている。前提として、どんな人間でも「神の単一性」の共同体に加わろうとすることは可能だが、こうした考えや信仰からすると、共同体の外側は全て「敵」ということになる。クトゥブは イスラム以外の社会、そこで神以外のものが崇拝されている社会は、どんな社会であれすべてジャーヒリーヤ〔野蛮〕だ。 と述べている。 宗教と全体主義は、「一体化」という点で共通していると言われる。例えば近代社会の「政教分離」原則に反して、敬虔なムスリムにとっては政治・経済・科学・宗教は別のカテゴリに分離できない。大日本帝国で「近代の超克」に参加した哲学者西谷啓治はムスリムではないが、彼の理想も、政治と宗教が継ぎ目無く一つの「全体」を形成すること、言わば教会と国家が合体することだった。(彼の批判によれば、ヨーロッパ精神文化が崩壊した原因は自然科学や分業化だった。)こうした統一的な国家宗教または精神的政治は、1930年代日本の京都から1970年代イランのテヘランにいたるまで、広く全体主義や反西洋思想(オクシデンタリズム)に見られる。毛沢東の中国、ヒトラーの第三帝国ナチスドイツ、スターリン体制下のソビエト連邦でも、宗教施設から大学の自然科学系学部まで、あらゆる機関が全体主義思想に従うよう強制的に再構築された。 歴史学や社会科学と異なり、 宗教的・ロマンチックな世界観ではこの種の「一体性」は「純真」に等しく、そして「純真」の時代が「堕落」の前に存在する。「純真」・「堕落」・「救済」といった宗教的・全体的概念は古くからあるが、これらは宗教家だけでなくロマンチスト(ロマン主義者)も多用してきた。近代の産業社会を主導する啓蒙主義者や合理主義者たちの見解は楽観的で、人間の歴史を「より幸福でより合理的な世界へと直線的に進行するもの」と見なしている。(「技術史観」では、「人間社会の歴史的発展を究極的に決定している要因は技術の進歩である」と考えられており、技術という普遍的発展に比べて文化・思想・社会等は常に技術より遅れている、とされている。)一方で、宗教的またはロマンチック(ロマン的)な人々は、悲劇的な感覚に基づいて自らの人生を「奈落の底」に位置づけ、自分たちは救済を希望しながら天を見上げている、と考える傾向がある。奈落や堕落とは、すなわち「断片化」 ―― 例えば「真実の自己」から離れること、社会からの疎外、「自然」または「神」からの疎遠 ―― とされる。 このような思想から見れば、労働と市場の関係もブルジョア的(市民的・資本家的)に分業されてしまっている。よって非ブルジョア的な宗教家やロマンチストにとっては、「救済」は統一や調和への憧れを満たすものである。彼らは非楽観的であるため、結果(目標達成)よりも過程(探求)を重視しており、よって「失われた一体性」を常に切望し続けている。 宗教的・ロマンチックな政治や価値観では、「失われた過去の調和」への郷愁が根強い。表面的種類としては中世ヨーロッパ、初期キリスト教、ロシア正教会全盛期、古代日本といった様々な「過去」が引き合いに出されるが、いずれにも「失われた一体性」という内容が共通している。そのような「過去」は、「一体性」を回復する「偉業」の原点としても持ち出されている。 「近代の超克」および「反西洋思想」も参照
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