中国共産党に加入
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この禅宗研究がきっかけで、楊度は次第に立憲君主制思想の限界を悟り、次第に自らの思想を転回させていくことになる。1918年(民国7年)3月、楊は指名手配を解除され、政治活動を再開する。9月、楊は立憲君主制思想の放棄を公に宣言した。その後は孫文と親交を結ぶようになり、1922年(民国11年)に中国国民党に加入し、孫のために北京政府へ様々な政治的工作を展開している。1925年(民国14年)8月には、一時的ながらも、奉天派の軍人・姜登選の招聘に応じ、その参賛となった。 1928年(民国17年)秋、楊度は上海に移り、画家として生計を立てた。このとき、青幇の首領である杜月笙の知遇を得て、その資金援助の下で『中国通史』を著述している。また、マルクス主義にも傾倒しはじめ、中国共産党の潘漢年の紹介と周恩来の批准を経て、楊度は正式に共産党に加入した。後に中国革命共済会や中国社会科学家聯盟にも参加している。 1931年9月17日、過労が原因で上海にて病没。享年57(満56歳)。
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