中国共産党に吸収されたパルチザン
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「抗日パルチザン」の記事における「中国共産党に吸収されたパルチザン」の解説
1922年(大正11年)の末、日本軍の撤退を受けたシベリアは、ソビエト共産党によって掌握され、日本との関係修復のために、独立をめざす朝鮮人パルチザンは武装解除された。それにともない、多くの朝鮮人が満州に移動して独立運動の継続を試みたが、シベリアでのロシア革命にともなった経験もあり、共産主義者となった者も多数いた。彼らは、1923年(大正12年)以降、延吉県、磐石県を中心に結集し、共産主義青年組織を立ち上げた。一方、朝鮮半島内でも朝鮮共産党が結成されていたが、第1次朝鮮共産党事件により満州へ亡命するものもあり、取り締まりのゆるやかな満州での活動が活発化した。 しかし、朝鮮の共産党は内紛が激しく、満州では民族派(右派)独立軍とも競合し、暗殺をまじえた激しい内部抗争のために、抗日活動はさほど盛り上がらなかった。 1930年(昭和5年)、コミンテルンの意向があり、満州の朝鮮共産党は、中国共産党に吸収されることとなる。中国共産党満州省委は、この方針に基づき「赤い五月」行動を指令した。朝鮮族の多い間島では、どれほど熱心にこの指令を実行するかで、朝鮮人の中国共産党入党の可否を決める、というような方針があり、間島五・三〇事件(間島暴動)が発生する。最初に行動を起こした部隊を率いていた人物の一人は、金一星(キム・イルソン)という龍井の大成中学生だった。この暴動は断続的に翌年の春まで続くが、襲撃されたのは電気会社や鉄橋などの日本の施設と、富裕な朝鮮人・中国人で、100人を超える犠牲者もすべて朝鮮人・中国人だった。 1932年(昭和7年)、関東軍の支配下で満州国が成立すると、満州全土で、反満抗日を旗印にかかげる武装団体が立ち上がった。東北軍閥、馬賊、宗教系武装団、朝鮮人民族主義者の独立武装団、そして、朝鮮人を含む中国共産党パルチザンである。共産党系のパルチザンは当初ごく少数だったが、満州国側の巧みな宣撫、掃討、帰順工作、政策(集団部落の創設)により、他の武装団体が衰弱、消滅していった中で、その残党を吸収しつつ一番長く満州に残ったが、それによって、日本側からは共匪と呼ばれる匪賊の一種にもなった。 1932年(昭和7年)の春、中国共産党磐石県委員会が朝鮮人20人あまりで軍事部を作ったのが、満州で最初のパルチザンだった。同年のうちに、この部隊は230人あまりに膨らんだ。とはいえ、当初は勢力拡大に専心し、またそれにともなう内紛もあって、目立った戦闘は行っていなかった。翌1933年(昭和8年)には、中央の司令で、満州各地に人民革命軍を創設する運びとなり、磐石県パルチザンが核となって、馬賊を抱き込むなどで人数を増やし、通化県へと地域も拡大していき、数百から千人内外の東北人民革命軍第一軍が成立した。 さらに1934年(昭和9年)から1935年(昭和10年)ころには、満州東部に第二軍、第五軍が設立され、北部には第三、四、六〜十一軍が編成された。 間島においては、1930年(昭和5年)の暴動に引き続き、朝鮮人共産主義者がごく狭い地域でソビエト政府を標榜して、「土地私有廃止、共同労働、共同生活」を唱えて騒動をまき起こしたりもしていたのである。このように、1932年(昭和7年)の初めころからパルチザンの小部隊が散在し、中国共産党による組織化は遅れたが、パルチザンの核はすでにできていた。共産主義者の詩人・槇村浩が、高知市にいながら日本共産党の機関紙・無産者新聞の記事を見て、想像によって『間島パルチザンの歌』を作り、「プロレタリア文学」に発表したのが1932年(昭和7年)の春である。 東北人民革命軍は二度ほど朝鮮半島内に侵攻しているが、もっとも世間を騒がせたのが東興事件である。1935年(昭和10年)2月、第一軍の第一独立師200人ほどが、朝鮮人の隊長・李紅光に率いられ、西間島を南下し、氷結した鴨緑江を渡って、平安北道厚昌郡東興邑を襲撃した。民間人を殺害し、金品を略奪して、朝鮮人資産家の家に放火し、16人を拉致して引き上げたが、隊長の李紅光は若い女性であるという噂が流れ、話題になった。 東北人民革命軍は資金が欠乏していたためか、東興事件のように、略奪・拉致を常としていて、『間島パルチザンの歌』のイメージからはほど遠かった。また、内紛も多く「民生団事件」では400名あまりの朝鮮人隊員が粛清されたといわれる。民生団とは、1932年(昭和7年)に朝鮮総督府が間島に発足させた民族主義反共朝鮮人組織だったが、うまく機能せず、同年の内に解体していた。したがって、事件がはじまった時点では存在していなかったのだが、人民革命軍は、結局は中国共産党の組織であり、数が多いにもかかわらず、朝鮮人隊員は排斥、疎外される傾向にあったのである。1935年(昭和10年)に東北人民革命軍第一軍師長兼参謀長の李紅光は戦死するが李紅光支隊は通化事件などで活躍する。
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