文壇での台頭
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/03 04:32 UTC 版)
没落した地主の家庭に生まれる。1918年(民国7年)夏、桃源県立第二女子師範学校予科に入学し、翌年秋に長沙周南女子中学に転入した。1921年(民国10年)秋には、さらに長沙岳雲中学に転入している。その翌年に上海平民女子学校に進学し、1923年(民国12年)には私立上海大学中国文学系に入学した。後に北京に移り、詩人の胡也頻(zh:胡也頻)と同棲、自身も小説を書き始めた。 1927年(民国16年)末に、丁玲自身としては2作目の小説で、女性の性と苦悩を描いた『ソフィ女士の日記(原題:莎菲女士的日記)』を発表した。1929年(民国18年)、沈従文らと『人間』、月刊『紅黒』といった雑誌を創刊している。1930年(民国19年)、中国左翼作家聯盟に加入した。翌1931年(民国20年)2月、パートナーの胡也頻(1930年、中国共産党に加入)が国民政府当局に殺害される悲運にも遭うも、9月、月刊『北斗』の主編となるなど活動を継続している。
※この「文壇での台頭」の解説は、「丁玲」の解説の一部です。
「文壇での台頭」を含む「丁玲」の記事については、「丁玲」の概要を参照ください。
- 文壇での台頭のページへのリンク