文壇に出た頃
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/16 06:15 UTC 版)
学校卒業後、三十四銀行(現三菱UFJ銀行の前身の一つ)広島支店に就職するが、文学に対する志望が強く、20歳の時に上京する。博文館で働きながら、文学活動を行う。この時期に書いた小説が大阪朝日新聞の懸賞に当選している。また、キリスト教の受洗をしている。 その後、同棲している女性の肺結核の療養のため、博文館を辞めて小田原に引っ越し、文筆活動に専念する。これがきっかけで、当時小田原に在住していた憧れの人である北原白秋の知遇を得る。1922年(大正11年)白秋と山田耕筰が編集する『詩と音楽』創刊号に初めて詩を発表した。 1924年(大正14年)にはジョバンニ・パピーニ『基督の生涯』の翻訳をアルスから出版し、ベストセラーになると共に、処女詩集『風・光・木の葉』を白秋の序文付で同じくアルスから出版した。1928年、訳詩集『近代佛蘭西詩集』をアルスから刊行(ただし親友平野威馬雄によるとこの翻訳は平野の仕事であり、フランス語のできない大木のために訳稿をプレゼントしたものであるという)。その後も、一貫して詩人として白秋と行動を共にした。 1930年代後半から歌謡曲の作詞も手がけ東海林太郎の「国境の町」は一世を風靡した。ほかに「夜明けの唄」、「隣の八重ちゃん」、『八丈舟唄』、「港の恋唄」、「俺は船のり」、「雪のふるさと」など、スコットランド民謡、「麦畑(誰かが誰かと)」(伊藤武雄共訳)他の訳詞の他、軍歌、社歌あるいは山田とのコンビで校歌も多数残している。
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