文壇へのデビュー
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/20 23:38 UTC 版)
「ピエール・ルイス」の記事における「文壇へのデビュー」の解説
1890年12月より、≪火曜会≫を通して親交を深めていた詩人アンリ・ド・レニエの紹介で、ルイスは高踏派の詩人ジョゼ・マリア・ド・エレディアの主催するサロンに出入りするようになった。≪土曜会≫と名付けられたサロンで、彼はエレディアの次女と三女で、最愛の女性となるマリー・ド・エレディア(後のレニエ夫人)と、最初の妻になるルイーズ・ド・エレディアの姉妹に出会う。 この頃ルイスは、医師から3年の余命宣告を受けていた。この宣告は結局誤診であったが、母と次兄を結核で早くに亡くしていたルイスはそれを信じ込み、相続した父親の遺産30万フランを3等分し、高価な稀覯本などを買い漁り、放蕩に明け暮れる生活を送っていた。 1891年3月、ルイスは自らが主幹となって≪La Conque≫(法螺貝)という洒脱な装丁を施した豪華な同人誌を刊行した。この同人誌は同世代のジッドやヴァレリーなど若い詩人の作品が掲載された他、ルコント・ド・リール、マラルメ、エレディア、レニエなどの先輩世代の詩人にも寄稿を依頼していた。創刊号にはヴァレリーの『ナルシス語る』が掲載され、大きな反響を呼んだ。 また、この年にはオスカー・ワイルドとの交流も始まり、ルイスはロンドンのワイルドのもとを訪問したり、ワイルドの戯曲『サロメ』のフランス語版の校閲を担当し、同作を献呈されたりと、友好関係を結んだ。
※この「文壇へのデビュー」の解説は、「ピエール・ルイス」の解説の一部です。
「文壇へのデビュー」を含む「ピエール・ルイス」の記事については、「ピエール・ルイス」の概要を参照ください。
- 文壇へのデビューのページへのリンク