文壇への登場
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1923年(大正12年)1月、菊池は雑誌『文藝春秋』を創刊、定価十銭、32ページで三千部が完売した。菊池の推挙により川端康成とともに『文藝春秋』二号から編集同人(当時の同誌は同人誌だった)となった。ほか、編集同人には今東光、鈴木氏享、斉藤龍太郎、小柳博、船田享二、小山悦朗、小島健三、石浜金作、酒井真人、佐々木味津三、鈴木彦次郎、南幸夫らがいた。創刊号1月号には「時代は放蕩する(階級文学者諸卿へ)」を書いた。 5月に同誌に「蠅」を、『新小説』に卑弥呼を題材にした「日輪」を発表すると、有名新人作家となった。この「日輪」は生田長江が訳したフローベールの「サランボー」(1913年、博文館)の直訳体から影響を受けたものであった。菊池寛は「映画劇」としての面白さは日本では類例がないと評価した。 6月、当時17歳の小島キミと同棲を開始。横光は以前から親友の佐藤一英にしきりに「兄勗をなんとか説き伏せてほしい」と哀願していた。佐藤は小島家へ乗り込み、小島勗に「横光に君ちゃんを」と申し出たが、小島は即座に拒否した。申し出は幾度か執拗になされたが、小島の答えは覆らなかった。佐藤は最後の手を打ち、キミ自身に横光が好きかどうか尋ね、キミが好きだと答えたため、「では、君ちゃん、横光のところへ家出しなさい」と命令するように言った。川端康成の回想によれば、「ある夜、小石川の餌差町の下宿に横光君を訪ねて、二人で散歩に出た。春日町、水道橋から、神田の通りを遠歩きして、下宿の近くまでもどると、「今夜、嫁が来ることになつてゐるんだ。寄つてゆかないか」と横光君が言つた。私はおどろいた。そんな話はまるで聞いてゐなかつた。私は結婚の当夜とは知らないで散歩してゐたわけである」とある。ただキミとの結婚には、小島家のみならず横光の母こぎくも反対だったようで、姉しずこの説得でいったんは納得したが、やがてこぎくが上京し横光・キミ・こぎくの3人の狭い家での同居生活が始まると、キミとこぎくの関係はうまくいかなくなった。キミは1906年(明治39年)生まれのいわゆる「丙午の女」であり、迷信を気にしたこぎくが「丙午の女は男を四十人食べる」と言ってキミを気に入らなかったのと、キミの気性が激しく、こぎくと性格が合わなかったためであった。横光は当時の嫁姑に挟まれた心境を、『夜の靴』の中で「鋸の歯の間で寝てゐるやうなもの」と綴っている。キミはこの年、日本高等女学校の第3学年に編入した。 7月には「碑文」を『新思潮』に発表、これはエドガー・アラン・ポーの『赤死病の仮面』や旧約聖書を典拠とした小説であった。「マルクスの審判」を『新潮』に発表。
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文壇への登場
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/12/22 18:57 UTC 版)
ネパール語紙カンティプルでコラムを書くようになると、世間からの注目を集め始めるようになる。女性、そして障碍者という立場から数々の詩を発表。2011年に、自伝『Jiwan Kada Ki Phool』が評価され、女性として史上2人目のマダン賞受賞を果たした。2012年に英訳版も出版された。2019年には、ビノド・ビスタ監督の手によって映画化され、ギミレも本人役で出演している。 ギミレは2002年ごろからネパール語文学への貢献が認められ、政府から毎月1000ルピーの資金援助を受けていたが、2005年にネパール政府を非難する記事を書いたところ、援助が停止された。独裁政権が崩壊後の2007年には、毎月4500ルピーに増額された上で、支援が再開された。
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