論壇・文壇への登場とは? わかりやすく解説

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論壇・文壇への登場

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 03:32 UTC 版)

西尾幹二」の記事における「論壇・文壇への登場」の解説

ニイチェ学問」(静岡大学人文論集13号)、「ニイチェ言語観 ―― 初期の作品めぐって」(『ドイツ文学28号)、「論争言語 ――ニイチェめぐって」(『Neue Stimme』創刊号)により、1963年昭和38年第3回ドイツ語学文学振興会賞を受賞また、1965年昭和40年)には論文「私の『戦後』観」(『自由』1965年2月号)にて雑誌『自由』の新人賞受賞1965年から67年昭和40年から42年)にかけ、ミュンヘン大学近代文学科のヘルマン・クー二ッシュ教授研究室客員助手として西ドイツ留学し、この経験をもとに執筆した論考が、三島由紀夫など論壇注目された。論考集処女作ヨーロッパ像の転換』として刊行され三島由紀夫推薦文付された。ついで発表したヨーロッパ個人主義』も、梅原猛が「一人思想家登場をみた」と同著のカバー推薦文寄せている。 ほぼ同時期、文芸評論家として文壇にもデビューする。論壇・文壇への登場は、西尾才覚早くから認めていた三島由紀夫福田恆存推挙による面も大きく2人関与していた楯の会関連雑誌論争ジャーナル』にも寄稿していた。西尾福田恆存思想にも影響を受け、福田没するまで深い交流があった(@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}「西尾幹二インターネット日録参照[いつ?])。批評家として小林秀雄論をはじめ様々な作家論発表、また三島由紀夫自決三島事件)に際し三島論「不自由への情熱」を月刊文芸誌新潮』に掲載した後述するが生前三島西尾交友があった。晩年小林秀雄会った際、西尾ブルクハルトについて小林議論している。

※この「論壇・文壇への登場」の解説は、「西尾幹二」の解説の一部です。
「論壇・文壇への登場」を含む「西尾幹二」の記事については、「西尾幹二」の概要を参照ください。

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