論壇・文壇への登場
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「ニイチェと学問」(静岡大学『人文論集』13号)、「ニイチェの言語観 ―― 初期の作品をめぐって」(『ドイツ文学』28号)、「論争と言語 ――ニイチェをめぐって」(『Neue Stimme』創刊号)により、1963年(昭和38年)第3回ドイツ語学文学振興会賞を受賞。また、1965年(昭和40年)には論文「私の『戦後』観」(『自由』1965年2月号)にて雑誌『自由』の新人賞を受賞。 1965年から67年(昭和40年から42年)にかけ、ミュンヘン大学近代文学科のヘルマン・クー二ッシュ教授研究室の客員助手として西ドイツに留学し、この経験をもとに執筆した論考が、三島由紀夫など論壇に注目された。論考集は処女作『ヨーロッパ像の転換』として刊行され、三島由紀夫の推薦文が付された。ついで発表した『ヨーロッパの個人主義』も、梅原猛が「一人の思想家の登場をみた」と同著のカバーで推薦文を寄せている。 ほぼ同時期、文芸評論家として文壇にもデビューする。論壇・文壇への登場は、西尾の才覚を早くから認めていた三島由紀夫や福田恆存の推挙による面も大きく、2人が関与していた楯の会関連雑誌『論争ジャーナル』にも寄稿していた。西尾は福田恆存の思想にも影響を受け、福田が没するまで深い交流があった(@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}「西尾幹二のインターネット日録」参照[いつ?])。批評家として小林秀雄論をはじめ様々な作家論を発表、また三島由紀夫の自決(三島事件)に際し、三島論「不自由への情熱」を月刊文芸誌『新潮』に掲載した。後述するが生前の三島と西尾は交友があった。晩年の小林秀雄と会った際、西尾はブルクハルトについて小林と議論している。
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