文芸評論家として
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1958年には、石原慎太郎、大江健三郎、谷川俊太郎、寺山修司、浅利慶太、永六輔、黛敏郎、福田善之ら若手文化人らと「若い日本の会」を結成し、60年安保に反対した。 1962年、ロックフェラー財団の研究員としてプリンストン大学に留学。滞在中に『小林秀雄』が新潮社文学賞を受賞したとの知らせを受けた。 1963年、プリンストン大学東洋学科で日本文学史を教える。 1964年に帰国。帰国後、愛国者にして天皇崇拝者の相貌を帯び始める。 1967年、遠山一行、高階秀爾と雑誌『季刊藝術』を創刊(1979年まで刊行)。 1971年から東京工業大学助教授、のち教授となる。『勝海舟全集』の編纂に携わるが海舟を、江藤自身は理想とする「治者」の典型と見てのことである。 1972年、中央教育審議会の委員に就任。 1974年、「『フォニイ』考」で、加賀乙彦、辻邦生らの長編を、純文学ならざるものとして批判し、論争となる。 1975年、博士論文『漱石とアーサー王伝説』を慶應義塾大学に提出し、同大学より文学博士号を取得。この論文は、江藤が漱石と嫂登世との恋愛関係に固執するあまり、恣意的に『薤露行』を罪と死と破局の物語と読む誤りを犯していると大岡昇平から批判を受け、論争になった。 1976年には、NHKのドキュメンタリー・ドラマ『明治の群像』のシナリオを手掛ける。1977年、『文學界』1月号掲載の開高健との対談『作家の狼疾』で「武田(泰淳)さんの物心両面の継続投資」が「埴谷雄高さんをいままでサーヴァイヴさせ」たと発言して埴谷を激怒させ、『江藤淳のこと』を『文藝』に掲載し批判した。 1979年にワシントンのウィルソン・センターで米軍占領下の検閲事情を調査。この際、アマースト大学の史学教授レイ・ムーアより、ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム(War Guilt Information Program、WGIP)とされる文書のコピーを提供されたという。これ以降、日本人がいかに洗脳されてきたか、日本国憲法が戦後の日本の言語空間を縛っているといったことを問題とし始める。 1980年の田中康夫の文藝賞受賞作『なんとなく、クリスタル』は、「ブランド小説」として文壇内では激しく批判されたが、江藤は高く評価した。1982年には、『海』4月号で吉本隆明と対談(『現代文学の倫理』)。このとき編集後記で同誌編集長宮田毬栄が、この対談について私見を述べたところ、江藤はそれに激怒して社長嶋中鵬二宛に抗議の手紙を送った。 1983年、「ユダの季節」で、保守派の論客である山崎正和、中嶋嶺雄、粕谷一希の党派性を批判し、保守論壇から孤立することとなった。 1988年、『新潮』5月号の創刊1000号記念で、大江健三郎、開高健、石原慎太郎ら同世代の作家と「文学の不易と流行」と題した座談会を行った。 1990年、東工大を辞職。母校の慶應義塾大学法学部客員教授を経て、1992年、慶應義塾大学環境情報学部教授。 1995年、文藝春秋5月号『皇室にあえて問う』で、阪神大震災の被災者を見舞った明仁天皇の姿勢を「何もひざまずく必要はない。被災者と同じ目線である必要もない。現行憲法上も特別な地位に立っておられる方々であってみれば、立ったままで構わない。馬上であろうと車上であろうと良いのです」と批判した。 1995年12月7日に、日本文藝家協会理事長として、公正取引委員会による出版流通の再販制度見直しに反対する声明を出したが、そのことに関して吉本隆明は「あの人の発言は、たとえば再販問題が起こったときもそうでしたが、一種の文学聖職説なんですよね。つまり、文学というのは聖なる職業なんです。(中略)僕らなんかはその反対の仕方なんです。文学なんかは聖職じゃないよ、学校の先生と同じで、ちっとも聖職じゃないんだよ、と思うわけですね。」と述べている。 1997年、定年まで1年を残し慶應義塾を去り、大正大学教授に就いた。 晩年、理想とする治者とは正反対の人生を送った永井荷風、西郷隆盛を論じ、意外の感を与えた[誰によって?]。
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