文芸評論の絶頂期
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/01 03:00 UTC 版)
「アレクサンドリア図書館」の記事における「文芸評論の絶頂期」の解説
ビュザンティオンのアリストファネス(英語版)(前257年頃-前180年頃)は前200年前後のどこかの時点で4代目の図書館長となった。ローマ人の著作家ウィトルウィウスによる伝説の記録によれば、アリストファネスはプトレマイオス3世が主催した詩の大会で任命された7人の審判のうちの1人であった。他の審判6人全員がある参加者を選んだ時、アリストファネスは皆が最も称賛しなかった人物を選んだ。アリストファネスは自身が選んだ以外の全ての詩人が盗作を犯したため失格であると宣言した。プトレマイオス3世がアリストファネスにその証明を求めたので、彼は保管場所の記憶に頼って図書館から彼らが剽窃した文書を探し出した。その印象的な記憶力と勤勉さから、プトレマイオス3世はアリストファネスを図書館長に任命した。 ビュザンティオンのアリストファネスの図書館長就任は、アレクサンドリア図書館の歴史の爛熟期の開始であると広く考えられている。図書館の歴史のこの段階において、文芸評論が、アレクサンドリア図書館の学術的な成果で支配的になった。ビュザンティオンのアリストファネスは、それまでは散文のように書きつけられていた詩のテキストを編集し、ページ上において詩を各行に分割する手法を導入した。彼はまた、ギリシア語の発音記号(英語版)体系を発明し、辞書学において重要な作品を書いた。こうして一連の文芸評論の隆盛が始まった。彼は多くの演劇の紹介を書き、そのうちのいくつかが部分的に書き直されて現存している。5代目の図書館長はアポロニオスという名の詳細がわからない人物であり、彼は形態分類者(ギリシャ語: ὁ εἰδογράφος)という俗称で知られている。ある後期の辞書学的史料は、この俗称を音楽的形態に基づいた詩の分類によるものとして言及している。 前2世紀初頭の間、複数の学者たちがアレクサンドリア図書館で医学を研究した。ゼウクシスという経験主義者はヒポクラテス全集のための注解を書いたとされており、彼は図書館の蔵書に加える医学書を獲得するために働いた。プトレマイオス・エピテテスという名前の学者は伝統的文献学と医学にまたがる主題である、ホメロスの詩における負傷についての著作を書いた。しかしながら、前2世紀初頭の間にはプトレマイオス朝の政治的権力が衰退を始めていた。前217年のラフィアの戦いの後、プトレマイオス朝の権力は不安定さを増し、前2世紀の前半にはエジプト人の反乱によって上エジプトの大部分が分離した。プトレマイオス朝の統治者たちはまた、彼らの王国のギリシア的側面よりもエジプト的側面を強調し始めた。その結果、多くのギリシア人の学者たちが安全な国と気前の良いパトロンを求めてアレクサンドリアを離れ始めた。 サモトラケのアリスタルコス(前216年頃生-前145年頃死)は第6代の図書館長である。彼は古代の学者の中で最も偉大であるという評判を集め、古典的な詩や散文作品の本文校訂を行うのみならず、完全なヒュポムネーマタ(英語版)(長文の、独立した注解)をそれらに加えた。これらの注解では典型的な古典テキストの一節を引用し、その意味を説明し、使用されている奇語を定義し、そしてその節の中で使用されている単語が真に原作者が使用したものであるか、後に写本作成者によって追補されたものであるかどうかはコメントされている。彼は様々な研究、とりわけホメロスの叙事詩について業績を立て、彼の論説は権威あるものとして古典古代の著作家によって広く引用された。ヘロドトスの『歴史』についてのあるアリスタルコスの注解の一部はパピルスの断片が発見され現存している。しかし、前145年、アリスタルコスは王朝の権力闘争に関わり、その中でエジプトの支配者としてプトレマイオス7世を支持した。プトレマイオス7世はプトレマイオス8世によって殺害され、その地位は彼が継承した。プトレマイオス8世は即座にプトレマイオス7世の支持者全てを処罰し始め、アリスタルコスはエジプトからの逃亡を余儀なくされてキプロス島に避難し、程なくしてその地で死亡した。プトレマイオス8世は全ての外国人学者をアレクサンドリアから追放し、彼らは東地中海各地へ分散を余儀なくされた。
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