文壇内の揣摩臆測
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東京帝国大学文学部在学中の1921年(大正10年)2月に同志らと第6次『新思潮』を発刊していた川端康成は、その継承の承諾を第3次・第4次の先輩作家・菊池寛から快諾された経緯があり、2号に掲載した自身の小説「招魂祭一景」も菊池から賞揚され、それ以来、川端の元には菊池の吹聴により寄稿依頼が舞い込むようになった。 伊藤初代と所帯を持とうとした際にも住む家の心配や生活費を援助されるなど、川端はその後も多大な恩顧を菊池から受け続け、幼い頃に肉親を亡くした自身の孤独な境遇から菊池の好意に精神的な利益を感じていた。「才能のある若い者同士」は友だちになったらいいと、当時最も期待を寄せていた無名の横光利一を川端に紹介し、二人が無二の親友になるきっかけを作った人物も菊池であった。その後菊池が1923年(大正12年)1月に『文藝春秋』を創刊した際も、川端は第6次『新思潮』同人や横光とともに期待の新人同人として迎え入れられた。 そうした恩顧があったため、関東大震災復興後に自分たちも新たな文芸同人誌を創刊したいと考えた際も、川端は菊池を傷つけはしないかとずいぶん心を砕き、事前に菊池に了解を得て同意をとった。横光も「(菊池氏は)決して悪くはお思ひなさるまいと存ぜられ候」と川端に伝えていた。最も嘱望していた横光まで仲間に入っていることに少なからずショックを受けたとみられる菊池だったが、一抹の寂しさを感じながらも彼らの巣立ちを「一言半句の反対もなし」にすぐに認めた。 その一方、菊池はその後、今東光に対しては「君らは、明らかに『文藝春秋』に損害を与えるじゃないか」と怒気をみせていたともされる。菊池は当初の第6次『新思潮』承認の時、うぶな帝大生の川端の仲間に「不良少年」として有名な東光が混じっていることに難色を示していたことがあった。 若手の同人誌創刊を認めた菊池は、川端や横光らが新たな同人誌で発言しやすいように配慮し、『文藝春秋』9月号の編集記内で、「『文藝春秋』の編集が従来とも同人本位ではないのだから、今後は同人は誰々だと指定しない」と書いて、同人解散宣言を行なった。同誌は菊池指揮の下に菅忠雄が編集担当になった。 しかし、川端と横光の新雑誌『文藝時代』が近々創刊されるという噂を耳にしていた文壇の間では、菊池の『文藝春秋』同人解散処置を見て、若い作家(川端、横光ら)の叛乱の気配を察した菊池が彼らを切り捨てたと解釈したり、菊池が飼い犬に手を噛まれたと揶揄したりするなど、両者の対立事件として様々な揣摩憶測が広まった。ダダイズム系の萩原恭次郎・橋爪健らの雑誌『ダムダム』は、「菊池寛は育ての子に脚蹴にされた」という面白半分の野次まで飛ばし、両者の「華々しい合戦」を期待していた。 『文藝時代』が創刊された同月の『文藝春秋』10月号の誌上には、「新進作家の団結云々の如き、創作丈(だけ)では出られない故、一緒になつて騒いで見るといふ以外に、多くの意義ありや。気力の薄弱と自信の少きを示すことにならねば 幸甚也(こうじんなり)」という、『文藝時代』に対し揶揄的とも取れる一文が掲載されるなど、二者間の「微妙な関係」が第三者的にも察せられる面もあった。
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