文壇進出
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「アンナ・アフマートヴァ」の記事における「文壇進出」の解説
1912年、彼女はペテルブルクで第一詩集『夕べ』を出版した。初版の発行部数はわずか300部にすぎなかったが、はかない愛を失った女の悲哀を詠った集中の抒情的な詩篇は、ロバート・ブラウニングやトーマス・ハーディを思わせるような簡潔かつ精神的で緊密な構成をもつものであり、古典的な発音や効果的な細部、色彩の巧みさなどは広く詩壇から絶賛された。マンデリシュタームは、その緊迫感にあふれた表現手法の源泉としてトルストイやツルゲーネフ、ドストエフスキーらの心理的散文を挙げている。 夫グミリョーフとともに、アフマートヴァの詩はアクメイストの詩人たちのあいだで好評を博した。その高貴な作風や芸術的完成度の高さにより、彼女は「ネヴァの女王」、「銀の時代の魂」などの異名を授けられた(「銀の時代」については次節を参照)。当時の詩壇や美術界を代表する前衛芸術家たちの溜まり場となっていたカフェ「野良犬」では、大勢の詩人たちが競ってアフマートヴァに捧げた自作の詩を朗読してみせた。数十年後にプーシキンの『エヴゲニー・オネーギン』に触発されて書いた畢生の大作『ヒーローのない叙事詩』でも、人生の最も幸福であったこの時期のことが回想されており、その第1章は「1913年」と題されている。 二人のあいだには1912年4月、『夕べ』の刊行直後に息子レフ・グミリョーフ(Lev Gumilev)が生まれている(この息子はのちにネオ・ユーラシアニズムの歴史家として広く知られるようになる)が、グミリョーフは妻子を置いて再び一人でアフリカへと旅立ってゆき、家庭は事実上すでに崩壊していた。新進気鋭の詩人として栄光に包まれていたこの時期は、アフマートヴァとグミリョーフの関係に破局の兆しが見えはじめた時期でもあったのである。そもそも、グミリョーフにとってアンナはあくまで自らの情熱をかき立てるミューズのような存在であり、彼女の書いた詩そのものを高く評価してはいなかったと見られる節さえある(アレクサンドル・ブローク(Alexander Blok)が彼の詩よりもアフマートヴァの詩の方を高く買っていると言い放ったときには愕然としたというエピソードも残っている)。
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