文壇進出とは? わかりやすく解説

文壇進出

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/21 14:03 UTC 版)

アンナ・アフマートヴァ」の記事における「文壇進出」の解説

1912年、彼女はペテルブルク第一詩集夕べ』を出版した初版発行部数はわずか300部にすぎなかったが、はかない愛を失った女の悲哀を詠った集中抒情的な詩篇は、ロバート・ブラウニングトーマス・ハーディ思わせるような簡潔かつ精神的緊密な構成をもつものであり、古典的な発音効果的な細部色彩巧みさなどは広く詩壇から絶賛された。マンデリシュタームは、その緊迫感あふれた表現手法源泉としてトルストイツルゲーネフドストエフスキーらの心理的散文挙げている。 夫グミリョーフとともに、アフマートヴァの詩はアクメイストの詩人たちのあいだで好評博した。その高貴な作風芸術的完成度の高さにより、彼女は「ネヴァ女王」、「銀の時代の魂」などの異名授けられた(「銀の時代」については次節参照)。当時詩壇美術界代表する前衛芸術家たちの溜まり場となっていたカフェ野良犬」では、大勢詩人たちが競ってアフマートヴァに捧げた自作の詩を朗読してみせた。数十年後にプーシキンの『エヴゲニー・オネーギン』に触発され書いた畢生の大作ヒーローのない叙事詩でも、人生の最も幸福であったこの時期のことが回想されており、その第1章は「1913年」と題されている。 二人のあいだには1912年4月、『夕べ』の刊行直後息子レフ・グミリョーフ(Lev Gumilev)が生まれている(この息子はのちにネオ・ユーラシアニズムの歴史家として広く知られるうになる)が、グミリョーフ妻子置いて再び一人アフリカへ旅立ってゆき、家庭事実上すでに崩壊していた。新進気鋭詩人として栄光包まれていたこの時期は、アフマートヴァとグミリョーフの関係に破局兆し見えはじめた時期でもあったのであるそもそもグミリョーフにとってアンナはあくまで自らの情熱かき立てるミューズのような存在であり、彼女の書いたそのもの高く評価してはいなかったと見られる節さえある(アレクサンドル・ブロークAlexander Blok)が彼の詩よりもアフマートヴァの詩の方を高く買っていると言い放ったときには愕然としたというエピソード残っている)。

※この「文壇進出」の解説は、「アンナ・アフマートヴァ」の解説の一部です。
「文壇進出」を含む「アンナ・アフマートヴァ」の記事については、「アンナ・アフマートヴァ」の概要を参照ください。

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