文壇登場までとは? わかりやすく解説

文壇登場まで

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/07 04:47 UTC 版)

北原白秋」の記事における「文壇登場まで」の解説

1885年明治18年1月25日熊本県玉名郡関外目(現・南関町)に生まれ、まもなく福岡県山門郡沖端村(現・柳川市)にある家に帰る。父・長太郎、母・シケ北原家江戸時代以来栄えた商家油屋また古問屋号し海産物問屋であった)で、当時は主に酒造業としていた。1887年明治20年)、弟・雄が生まれる。そしてこの年には、白秋大きな影響与えた乳母シカチフス逝去する。 1891年明治24年)、矢留尋常小学校入学1897年明治30年)、柳河高等小学校より県立伝習館中学現福岡県伝習館高等学校)に進むも、1899年明治32年)には成績下落のため落第この頃より詩歌熱中し雑誌文庫』『明星』などを濫読する。ことに明星派傾倒した1901年明治34年)、大火によって北原家酒蔵全焼し以降家産傾き始める。白秋自身依然文学熱中し同人雑誌詩文掲載この年初めて「白秋」の号を用いる。1904年明治37年)、長詩林下黙想』が河井醉茗称揚するところとなり『文庫四月号に掲載感激した白秋は父に無断中学退学し早稲田大学英文科予科入学上京後同郷の好によって若山牧水親しく交わるようになるこの頃、号を「射水しゃすい)」と称し同じく友人中林、牧と共に早稲田三水」と呼ばれた1905年明治38年)には『全都覚醒賦』が「早稲田学報懸賞一等入選しいち早く新進詩人として注目されるうになるこの頃少年時代南関の家で本を読み白秋本の大切さ教えた叔父亡くなる。

※この「文壇登場まで」の解説は、「北原白秋」の解説の一部です。
「文壇登場まで」を含む「北原白秋」の記事については、「北原白秋」の概要を参照ください。

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