左翼文学者として
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1910年(宣統2年)、兄と共に日本に赴き、1914年7月、成仿吾は旧制第六高等学校に入学した。1916年10月、東京帝国大学工学部造兵科に入学し、1921年春に卒業する前に中退。同年に帰国後、郭沫若が日本で結成した創造社に参加し、1923年(民国12年)5月、『創造周報』を創刊した。同年7月には『創造日』を創刊し、郁達夫と共に成が責任編輯を務めている。 1924年(民国13年)6月、成仿吾は国立広東大学理学院で物理学教授となり、さらに黄埔軍官学校で兵器科技正も兼任した。翌年、郭沫若・郁達夫と芸術研究会文学講座講師となる。1926年(民国15年)3月、『創造月刊』が創刊されると、成は編輯を務めた。1928年(民国17年)2月に「文学革命から革命文学へ(原文:從文學革命到革命文學)」という論文を著し、マルクス主義的観点(唯物論・弁証法など)から胡適・魯迅らを批判している。5月、国民政府の取締りにより創造社が閉鎖されてしまったため、成はフランスに赴き、同地で中国共産党に加入した。1930年、ドイツに移り、ベルリンで社会科学の研究に従事した。
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