左翼狩り
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/14 07:15 UTC 版)
9月11日午前6時、チリ陸海空軍および国家警察は、チリ国内の左翼活動拠点を一斉摘発した。工科大学に左翼集団が有り、チリ軍は武器の放棄と抵抗の停止を求めたが、工科大学側から発砲、銃撃戦となり、チリ軍、左翼集団双方に死傷者が出た。このような戦闘行為はサンチャゴにおいては概ね9月13日には鎮圧されたが、地方部では戦闘が数ヶ月におよぶところもあった。サンチャゴ市内をはじめ、チリ全土に非常線が張られ、チリ軍が張った非常線では武装した人民連合の摘発、人民連合が張った非常線では、右翼の射殺などが行われた。サンチャゴ市内の戦闘と伴にチリ軍部は「左翼狩り」を行い、武器を持った人民連合の関係者や労働組合員、市民や活動家が逮捕・拘束・殺害され、その中には人気のあったフォルクローレ歌手ビクトル・ハラもいた。彼が殺されたサンティアゴの室内競技場エスタディオ・チレ(英語版)には、他にも多くの左派市民が拘留され、そこで射殺されなかったものは投獄、あるいは非公然に強制収容所に送られた。また、左翼系の書籍や雑誌はことごとく没収され、公衆の面前で焚書された。ビクトル・ハラの音楽のマスターテープも破棄された。穏健派であった共産党員の殺害も見られた、一方、急進左派の社会党員は、アルゼンチン経由、もしくはメキシコ経由で亡命し、政治活動を継続したものも大勢いる。 前年にノーベル文学賞を受賞した詩人パブロ・ネルーダ(チリ共産党員であった)はガンで病床にあったが、クーデターの直後に兵士が自宅に押し入り、家を荒らされた上に蔵書も破棄される狼藉に遭った。9月24日に危篤状態となって病院に向かったところ、途中の検問で救急車から引きずり出されて無理やり取り調べを受け、そのまま病院到着直後に亡くなった。 またクーデターにより多くの左派市民が外国に亡命したが、その中には著名なフォルクローレ・グループや歌手も多数含まれていた。先の陸軍総司令官カルロス・プラッツはアルゼンチンに亡命していたが、翌年74年9月にピノチェトの創設した秘密警察「DINA(英語版)」の仕掛けたとされる車爆弾によって妻とともに暗殺された。ただし、この当時のアルゼンチンは汚い戦争の最中であり、多くの左派系人物が暗殺、行方不明となっている。プラッツは人民連合よりのスト調停を行い、右派からは反発を受けていた。またアジェンデ政権末期には軍部と連携して打倒に動いていたキリスト教民主党もクーデター後に非合法化され、75年10月には、党の前大統領エドゥアルド・フレイ・モンタルバの下で副大統領を務めていたベルナルド・レイトン(英語版、スペイン語版)が、亡命先のイタリアで妻と共に襲撃され重傷を負った。 これら一連の非公然のテロ活動は、DINA単独によるものではなく、ブラジルやアルゼンチン、ボリビア、パラグアイその他ラテンアメリカ各国の軍事政権と秘密裏に連携し、互いの相手国に亡命した反政府派を拘束あるいは殺害していった、所謂コンドル作戦の一環だったことが今日では知られている。
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