共産主義運動の多様化
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スターリンが死んだ3年後の1956年、ソ連共産党第一書記のニキータ・フルシチョフがスターリン批判を行ってスターリンの権威を失墜させ、世界中の共産党に大きな衝撃を与えた。ソ連はスターリン体制の改革に動きだし、各国の共産党も追随した。 一方、中華人民共和国とアルバニアはスターリン死後のソ連の変質を、「修正主義」「社会帝国主義」と見なして激しく攻撃し、自らを反修正主義(英語版)として正当性を主張した。一方のソ連も毛沢東の人民弾圧を非難して、両国は厳しく対立することになった(中ソ対立)。ソ連の指導から離れた中国共産党は毛沢東の指導下で毛沢東思想を形成していくことになる。中ソ対立は世界中のコミンテルン直系の共産党に分断をもたらし、新左翼の間にも信奉者を生んだ。国家の政権を握った例では、アルバニア労働党とクメール・ルージュが中華人民共和国側についた(日本では日本共産党(左派)や一部の日本の新左翼など)。 毛沢東の指導下の中国共産党は、事実上、国際的な共産主義潮流の分断を再びもたらした。毛沢東死後の中国では鄧小平が実践する鄧小平理論の下で社会主義市場経済が導入されたが、中華人民共和国が資本主義を導入して反修正主義的な毛沢東主義が顧みられなくなった1980年代以降も、ペルーやインド、ネパールなどで毛沢東主義を掲げる共産党によって武装闘争が繰り広げられた。 また同年、ハンガリー動乱においてソ連率いるワルシャワ条約機構軍が民衆の蜂起を弾圧したことは、各国でソ連に対する失望を産むことになった。欧米や日本では新左翼(ニューレフト)と呼ばれる潮流が発生し、トロツキズムも影響力を拡大した。 1959年にキューバ革命が成功すると、ラテンアメリカ、アフリカ、中東におけるソ連派と西側派の抗争が高まった。これらは「代理戦争」とも呼ばれる。ベトナム戦争やコンゴ動乱、アンゴラ内戦、オガデン戦争などきわめて長期間に及ぶ大規模な紛争も発生した。ラテンアメリカでは、マリアテギやチェ・ゲバラ、毛沢東思想等の多様な影響を受けた左派がゲリラを形成した。 1968年にはチェコスロバキアの改革の動き「プラハの春」が始まったが、再びワルシャワ条約機構軍によって鎮圧された。この事件はさらにソ連への失望を産むことになり、西欧の共産党はソ連型社会主義とは一線を画した、いわゆる「ユーロコミュニズム」と呼ばれる、市場経済や、個人の自由や民主主義を前提とした共産主義を目指して行く。その中心はイタリア共産党であったが、日本共産党も「自由と民主主義の宣言」によって、市民的自由や政権交代を含む多党制の擁護を明確にし、日本型社会主義のビジョンを提起する(ユーロコミュニズムと基本的には同様の傾向をもつが、非同盟と平和主義を正面に押し出した点が異なる)。 1977年頃、アルバニアのエンヴェル・ホッジャはアメリカと接近した中国とも訣別し、アルバニア派と呼ばれる独自のスターリン主義派(ホッジャ主義)を形成した。この潮流は、自分自身をスターリンの遺産の厳格な防衛者と定め、他の全ての共産主義集団を修正主義と激しく批判した。エンヴェル・ホッジャはアメリカ合衆国、ソビエト連邦、中華人民共和国を批判し、1968年にワルシャワ条約機構がチェコスロバキアに軍事侵攻したプラハの春を非難した。ホッジャは1978年の中国との決裂後、アルバニアは世界で唯一のマルクス・レーニン主義国家となると宣言した。同様にソ連と距離を置く独自路線を行っていたユーゴスラビアのチトー主義や、ルーマニアのニコラエ・チャウシェスク、北朝鮮の金日成も批判したアルバニアは孤立を深めることになる。一方でこのアルバニアのイデオロギーは、 コロンビアの人民解放軍やブラジル共産党など主にラテンアメリカで毛沢東主義の大きなシェアを獲得し、国際的な賛同者を産んだ。この傾向は後にホッジャ主義と呼ばれた。アルバニアで共産主義者の政権が倒れた後、親アルバニア政党は国際会議のマルキストレーニスト諸派諸組織の国際会議(英語版)に参加した。
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