経済・都市政策
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 01:41 UTC 版)
いわゆる「楽市・楽座令」は、信長が最初に行った施策と言われることが多いが、現在確認されている限りでは、近江南部の戦国大名であった六角氏が最初に行った施策である。この「楽市・楽座令」については評価が別れている。かつて豊田武は、特権的な商工業者の団体である座を解体し、流通を促進する革新的政策であると位置づけた。一方で、信長は実際には多くの座の特権を保障しており、脇田修らは信長が座の否定を意図していなかったと論じている。 また、不必要な関所を撤廃して流通を活性化させ、都市の振興と経済の発展を図った。これについては他の戦国大名の行ったことのない革新的な政策であると考えられる。 関所撤廃とあわせて、天正2年(1574年)末から、信長は坂井利貞ら4人の奉行に道路整備を命じている。この工事は翌年にも続き、織田家の領国中に広く実施された。この道路整備によって、人々や牛馬の通行が容易となった。 当時全国でばらばらであった枡の統一規格として、織田領国では京枡を統一採用したともされる。この枡は豊臣政権 - 徳川幕府にまで受け継がれた。この事により、年貢や物流の管理が正確に、かつし易くなった そして、質の悪い貨幣と良い貨幣の価値比率を定めた撰銭令を発令した。他大名や室町幕府の出した撰銭令と比べ、信長の撰銭令の特徴は「全ての銭に価値比率を定めている」点である。また、金銀の貨幣価値を定める規定は革新的なものであり、江戸時代の三貨制度に続くものであると高く評価されている。ただし、この 撰銭令は、かえって貨幣取引を減少させ、米を用いた取引を増加させるという結果をもたらし、期待した効果を発揮できなかったと考えられている。 さらに信長は石山本願寺と和睦したのち、大坂の地に城を築かせた。本能寺の変の時点では「千貫矢倉」が津田信澄に預けられていたという(『細川忠興軍功記』)。これは『フロイス日本史』の「本能寺の変の折、津田信澄は大坂城の塔(torre)を見張っていた」という記述と符合する。『信長公記』によると立地を高く評価しており、跡地にさらに大きな城を築く予定であったという。
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