明治紀念之標
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明治紀念之標(めいじきねんのひょう)は1880年(明治13年)に建立された、石川県金沢市の兼六園内にある日本で最初の西洋式銅像[1]。1877年(明治10年)の西南戦争戦没者の慰霊のために建設された[1]。
- ^ a b c d e 石川県 1993, pp. 2–3.
- ^ 廣瀬 2012.
- ^ a b 石川県 1993, p. 2.
- ^ 橋本確文堂 1997, p. 457.
- ^ 下郷 1999, p. 190.
- ^ a b 北國新聞社 2014, p. 59.
- ^ a b 下郷 1999, pp. 214–216.
- ^ a b 北國新聞社 2013, pp. 14–15.
- ^ 本康 2019, p. 59.
- ^ 兼六園観光協会 1976, pp. 287–288.
- ^ a b 石川県 1993, p. 4.
- ^ 水島 1970, pp. 31–33.
- ^ 橋本確文堂 1997, p. 458.
- ^ 廣瀬 2012, pp. 140–142.
- ^ 兼六園観光協会 1976, p. 288.
- ^ 橋本確文堂 1997, p. 466.
- ^ 兼六園観光協会 1976, p. 287.
- ^ 下郷 1999, p. 214.
- ^ 北國新聞社 2014, p. 58.
- 1 明治紀念之標とは
- 2 明治紀念之標の概要
- 3 俗信
- 4 外部リンク
明治紀念之標
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/09 04:39 UTC 版)
詳細は「明治紀念之標」を参照 1880年(明治13年)に西南戦争で戦死した石川県戦士400人を慰霊するために建てられ、日本最初の屋外人物の銅像である。中央に日本武尊像(身長5.5m)、左に石川県戦士忠碑があり、両脇には京都の東本願寺・西本願寺の門跡から移された手向松が植えられている。明治記念之標の土台となっている石は、もともと金沢城玉泉院丸庭園にあったものである。西南戦争での戦死者を、九州の熊襲を平定したヤマトタケルになぞらえ建立された。 なお、この日本武尊像には、「ハトが寄り付かない」という逸話がある。金沢大学名誉教授の廣瀬幸雄は、このことを研究対象として、像の構成要素を調べることで「鳥を寄せ付けない合金」を開発し、2003年のイグノーベル賞を受賞した。
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