攘夷親征策
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/03 17:00 UTC 版)
外国艦船に砲撃を加えた長州藩に対し、幕府は「もはや戦端を開いた以上、穏便に事を運ぶのは不可能だと申してきておるが、先に異国拒絶について布達した際、不明な点は逐一問い合わせることになっていたはず。ところがそれもせず、横浜の交渉が決裂してもいないのにみだりに戦端を開いたことは(世界に対して)国辱を生ぜしめたに等しく、もっての外である」との問罪書を6月12日に交付した。長州は幕府の穏健な攘夷(鎖港交渉)方針に従うことはできないが、外国艦船砲撃に同調する藩はなく孤立し、幕府から譴責を受けてしまった。これによって長州は、3月の勅書で確認された幕府への攘夷実行の全権委任を解除し、朝廷が武力による攘夷を直接指揮する親征方式に切り替えて日本全国を攘夷戦争で一致させようと企図する。 献策したのは久留米の尊攘家真木和泉であった。真木は前年の寺田屋騒動で捕えられ国元で幽囚の身となっていたが、長州の働きかけによりこの5月に赦された。そして藩主毛利敬親に拝謁し、攘夷親征を意見具申して採用された。真木は京都でも木戸孝允(桂小五郎)ら在京の長州藩士らに攘夷親征策を提案する。攘夷親征を天下に布告して石清水に行幸、そこから勅使を関東に下すというのである。毛利慶親は6月18日、石清水行幸・攘夷親征勅命の工作、違勅の幕吏・大名は長州一手でも討伐すべきことなどを家老らに命じた。 しかし、孝明天皇は熱心な攘夷論者ではあるものの、暴走する急進派公家や長州を嫌悪し、攘夷戦争も望まず、将軍に対する委任を止めるつもりもない。島津久光が帰国して以降、天皇は国事御用掛の中川宮朝彦親王や前関白の近衛忠煕らに久光への期待をたびたび漏らし、近衛もまた久光に上洛の催促を繰り返した。6月9日には、叡慮を妨げ偽勅を発する「姦人」(三条実美ら)を排除せよとの密勅が薩摩藩にもたらされる。しかし、久光側近の大久保利通は機はまだ到来していないという意見で、越前藩の挙藩上洛計画との調整や、生麦事件の賠償を迫るイギリス艦隊の襲来への備えもあり、上洛は7月下旬頃がよいということになった。 6月25日、参内した松平容保に対し、情勢把握と攘夷実行の督励にあたらせるために関東下向を命じる勅命が下された。だがその翌日、天皇から容保に密勅が届けられた。「前日の勅命の趣旨はもっともなことながら、いま守護職の容保が下向するのを私は望んでいない。だが近頃の朝廷は過激派公家の主張が通り、私が何を言ってもどうにもならない。あれは真の勅命ではないと心得て、了承するもしないも遠慮なく返答してもらいたい。決して下向を強いるつもりはない」という。下向の勅命は、攘夷親征計画の妨げになる京都守護職の会津藩を追い払うための急進派の策謀であった。
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