攘夷派と揺れ動く閔氏政権とは? わかりやすく解説

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攘夷派と揺れ動く閔氏政権

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/05 09:38 UTC 版)

李氏朝鮮」の記事における「攘夷派と揺れ動く閔氏政権」の解説

また、日本から顧問呼び近代式の新式軍隊編成試みていたが、従来旧式軍隊への給与不払い差別待遇などが行われていた。これらに不満を持った旧式軍隊は、大院君・斥邪派(攘夷派)の煽動有って1882年閔妃暗殺狙いクーデター動いた壬午事変)。この軍乱で新式軍隊教育支援していた日本標的とされ日本公使館焼き討ちにされ日本人多数殺害された。一時的に大院君政権掌握するが、閔妃は清の袁世凱頼みこれらの軍を排除大院君清に連行された。事変後には済物浦条約締結され日本謝罪を行うとともに日本人保護のために日本軍朝鮮駐留認められた。清によって復権した閔氏政権は、親日開明政策から開明に消極的な親清政策大きく転換する事になる。清と結ぶ保守的な事大党権力握り日本結んで朝鮮清からの自主独立近代化めざした開化派独立党金玉均朴泳孝ら)と対立し親日開化派孤立した。また混乱から国内では反乱生じる。1884年12月開化派クーデター起こし閔氏排し新政府樹立するものの、袁世凱率いる清軍の介入により3日間で頓挫し清国軍と朝鮮人によって日本公使館焼き払われ日本人数十人が殺害され金玉均らは日本亡命した甲申政変)。事件後には守旧派によって開化派への処刑徹底的に行われ開化勢力消滅し清国影響力増大した1885年にはイギリス軍によって巨文島占領された(ポート・ハミルトン事件)。 また1894年には東学党の乱甲午農民戦争)が勃発すると親清派の閔氏勢力清に援軍求め一方日本条約居留民保護列強支持を盾に介入し、乱は官軍農民和議という形で終結するが、淮軍日本朝鮮駐屯し続けた日本閔氏勢力追放し大院君政権担当させて日本の意に沿った内政改革進めさせた。しかし、攘夷であった大院君はもはや傀儡過ぎず実際政治金弘集執り行っていた。なお東学党の乱に先立つ1894年3月28日金玉均上海閔氏勢力差し向けた刺客により暗殺されている。

※この「攘夷派と揺れ動く閔氏政権」の解説は、「李氏朝鮮」の解説の一部です。
「攘夷派と揺れ動く閔氏政権」を含む「李氏朝鮮」の記事については、「李氏朝鮮」の概要を参照ください。

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