攘夷委任と攘夷期日
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「八月十八日の政変」の記事における「攘夷委任と攘夷期日」の解説
将軍徳川家茂は3千の兵を率いて文久3年3月4日に着京した。3代徳川家光以来229年ぶりの将軍上洛である。 翌日、将軍後見職一橋慶喜が参内し、「これまでも将軍へ一切御委任されていたことではあるが、(確認的に)今一度御委任くだされば天下に号令して攘夷を行いたい」と勅諚を求めた。慶喜は徹夜で粘り、孝明天皇は「従来どおり庶政は幕府に委任するつもりである。攘夷の実行に励むように」と答えたが、慶喜はさらに関白に求めて文書化したものを得た。 ところが、将軍が7日に参内しあらためて受け取った勅書は、征夷大将軍のことは従来どおり委任するが、国事については直接諸藩に命じる場合もあると書かれていた。これでは「征夷将軍儀」はその文字どおりの職掌である征夷(攘夷)に限られ、他の国政の最終決定権は朝廷にあるようにも解され、幕府への庶政委任は骨抜きにされた格好であった。だが、とにかく何をもって攘夷としそれをどう行うかはその裁量に委ねられた。それだけでも幕府にとって意味はあった。 3月11日、長州藩世子毛利元徳(定広)の進言によって攘夷成功祈願の賀茂行幸があり、関白以下の廷臣に加え、将軍家茂、慶喜他在京の諸大名は徒歩で随行した。江戸時代の天皇は、観念的には将軍の上位にあっても、実際はさまざまな面で幕府の支配を受けていた。その関係が逆転したことを可視化し、攘夷を祈願する天皇に将軍・諸大名が随従する様を天下に示すデモンストレーションであった。 その3日後、島津久光が京都に入った。前年12月に松平春嶽から上洛を求められていたのを受けてのことで、山内容堂を加えた3人で公武合体の実現に努めることになっていた。幕府もこれに形勢逆転の期待をかけていたが、当の久光は急進派の追い落としに手を尽くすも成功せず、早々と18日に帰国してしまう。春嶽はもはやこれまでと将軍職返上を勧めて自らも政事総裁職辞任を申し出、承認も待たず21日に、容堂も26日に帰国する。もはや京都は入説で工作できる状況にはなく、実力をもって局面の転換を図らなければならなかった。帰国後、越前藩は次の行動の準備に取り掛かり、土佐藩では長州に通じる藩内の過激尊攘派から容堂が実権を奪回すべく動き出す。ただ薩摩藩は、次の段階に進む前に、生麦事件の賠償交渉という難事を控えていた。 将軍家茂も再三にわたり東帰を願い出たが、イギリス艦隊が大坂湾に襲来するという噂もあってことごとく差し止められ、4月11日の石清水行幸を迎えた。ここで予定されていたのは軍神とされる八幡宮の神前で将軍に節刀を賜うパフォーマンスで、これは兵権を委ねて朝敵の征伐を命じることを意味した。だが、天皇自身はこの行幸を望んでいなかった。過激派の跋扈に苦悩する天皇は体調を崩して行幸の延期を求めたが、議奏三条実美は仮病ではないかと疑い、本当だとしても延期はできないと主張した。さらに国事参政・国事寄人らは天皇が不承知でも鳳輦に押し込めようとしたため、天皇もついに延期を諦めざるを得なかった。慶喜は将軍には病気を理由に供奉させず、自身は名代として男山の麓まで行ったところでにわかに眼病を発したと言って引き返した。欠席に激した攘夷派から慶喜は天誅の脅迫を相次いで受けることになった。 4月16日、長州藩主毛利敬親が勅命によって攘夷期日を交付するよう奏請。これまでは朝廷が将軍を江戸に帰さないため、慶喜が約束した将軍東帰後20日という期限も自然先送りになっていた。しかし、将軍が18日に参内して視察のための下坂と慶喜東帰を願い出たところ、期限の決定と布告を迫られ、幕府はとうとう5月10日を期限とする旨奉答するに至った。そして4月23日、幕府は諸藩へ「攘夷の儀、五月十日拒絶に及ぶべき段御達相成り候間、銘々右の心得を以て自国海岸防禦筋いよいよ以て厳重相備へ、襲来候節は掃攘致し候様致さるべく候」と布達した。
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