攘夷奉承とは? わかりやすく解説

攘夷奉承

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/03 17:00 UTC 版)

八月十八日の政変」の記事における「攘夷奉承」の解説

文久2年9月21日土佐長州薩摩尊攘派加わった運動奏功し、幕府即今攘夷を迫る新たな勅使江戸遣わすことが決まった攘夷別勅使)。土佐山内家の縁者清華家三条実美正使姉小路公知副使とし、藩主山内豊範随行することとなった。 その約半月前の9月7日幕府先の勅使下向沙汰止みとなっていた将軍上洛翌年2月に行うと布告したその後環境整えておく必要から将軍後見職一橋慶喜がまず上洛して朝廷に入説することも決まり、では次にどういう国是対外方針)で臨むかの議論となった松平春嶽は必戦の覚悟条約破棄すべきことを主張した勅許得ず押し付けられ結んだ条約はいったん破棄した上、全国諸大名集めた会議経て天下一致しあらため開国に進むべきであるという、一種折衷案である。幕閣は到底不可能だ反対議論紛糾したが、その真意天下賛同得た上で開国であるという横井小楠説明により、やっと破約攘夷まとまりかけた。ところがここに来て入説の任を担う慶喜が、政府間で正式に結ばれた条約国内の不正(無勅許)を理由破棄してならない、また破棄してから大名会議賛同得られなければどうするのか、それよりも自分が理を尽くして天皇説得する幕府のことはもはや無いものと思って顧みず、ただ日本全体のためを考えてのことである、と主張した横井はこれこそ「卓見英断」「第一等」の案であるとして姑息な第二等」の案を撤回することとし10月1日幕議開国入説で決着した。だが同じ日、朝廷勅使下向理由慶喜の上見合わせ申し渡してきた。 春嶽は、慶喜幕府顧みぬ覚悟示したことから賛成転じたが、その後慶喜言動からその覚悟疑わしくなり、攘夷論に戻ると再び引きこもってしまった。そこで幕政参与山内容堂調停乗り出したが、復権して日も浅いため攘夷勅命奉じている自藩を抑えることもできず、奉勅攘夷方向幕閣説得するしかなかった。すでに和宮降嫁のときに将来攘夷約束している。いまさら開国論主張すれば、この勅使議論及ばず帰京し関西大混乱攘夷運動は攘将軍討幕)に発展するとの容堂の説に、幕閣慶喜折れた折れたが、やはり攘夷の入説は不本意だからと慶喜後見辞任申し出驚いた老中や春嶽・容堂の説得でようやく撤回したこの頃フランス大坂湾艦隊派遣しその武力背景朝廷条約勅許を迫るとの観測があり、幕府内では老中板倉勝静および老中格小笠原長行提案で、これへの備え名目京都大軍送り込んで過激な尊攘派一掃する構想検討されていた。慶喜もこれに同調し11月28日に春嶽を訪ねて京師守護」「海岸防禦」の名目で兵2万率いて上坂することにつき意見求めたが、このときは春嶽の賛意得られなかった。 攘夷別勅使は10月27日江戸到着した将軍家茂の病気のために対面引き延ばされたが、12月5日将軍は攘夷奉承を回答し具体策については翌年の上時に協議することとなった。この対面従来慣例破って勅使上座置いて行われた

※この「攘夷奉承」の解説は、「八月十八日の政変」の解説の一部です。
「攘夷奉承」を含む「八月十八日の政変」の記事については、「八月十八日の政変」の概要を参照ください。

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