攘夷奉承
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/03 17:00 UTC 版)
文久2年9月21日、土佐と長州に薩摩の尊攘派も加わった運動が奏功し、幕府に即今攘夷を迫る新たな勅使を江戸に遣わすことが決まった(攘夷別勅使)。土佐山内家の縁者で清華家の三条実美を正使、姉小路公知を副使とし、藩主山内豊範が随行することとなった。 その約半月前の9月7日、幕府は先の勅使下向で沙汰止みとなっていた将軍上洛を翌年2月に行うと布告した。その後環境を整えておく必要から将軍後見職の一橋慶喜がまず上洛して朝廷に入説することも決まり、では次にどういう国是(対外方針)で臨むかの議論となった。松平春嶽は必戦の覚悟で条約を破棄すべきことを主張した。勅許も得ず押し付けられて結んだ条約はいったん破棄した上、全国の諸大名を集めた会議を経て天下一致しあらためて開国に進むべきであるという、一種の折衷案である。幕閣は到底不可能だと反対し議論は紛糾したが、その真意は天下の賛同を得た上での開国であるという横井小楠の説明により、やっと破約攘夷でまとまりかけた。ところがここに来て入説の任を担う慶喜が、政府間で正式に結ばれた条約を国内の不正(無勅許)を理由に破棄してはならない、また破棄してから大名会議の賛同を得られなければどうするのか、それよりも自分が理を尽くして天皇を説得する、幕府のことはもはや無いものと思って顧みず、ただ日本全体のためを考えてのことである、と主張した。横井はこれこそ「卓見と英断」「第一等」の案であるとして姑息な「第二等」の案を撤回することとし、10月1日に幕議は開国入説で決着した。だが同じ日、朝廷は勅使下向を理由に慶喜の上洛見合わせを申し渡してきた。 春嶽は、慶喜が幕府を顧みぬ覚悟を示したことから賛成に転じたが、その後の慶喜の言動からその覚悟が疑わしくなり、攘夷論に戻ると再び引きこもってしまった。そこで幕政参与の山内容堂が調停に乗り出したが、復権して日も浅いため攘夷の勅命を奉じている自藩を抑えることもできず、奉勅攘夷の方向で幕閣を説得するしかなかった。すでに和宮降嫁のときに将来の攘夷は約束している。いまさら開国論を主張すれば、この勅使は議論に及ばず帰京し、関西は大混乱、攘夷運動は攘将軍(討幕)に発展するとの容堂の説に、幕閣も慶喜も折れた。折れたが、やはり攘夷の入説は不本意だからと慶喜は後見職辞任を申し出、驚いた老中や春嶽・容堂の説得でようやく撤回した。 この頃フランスが大坂湾に艦隊を派遣しその武力を背景に朝廷に条約勅許を迫るとの観測があり、幕府内では老中板倉勝静および老中格小笠原長行の提案で、これへの備えを名目に京都に大軍を送り込んで過激な尊攘派を一掃する構想も検討されていた。慶喜もこれに同調し、11月28日に春嶽を訪ねて「京師守護」「海岸防禦」の名目で兵2万を率いて上坂することにつき意見を求めたが、このときは春嶽の賛意を得られなかった。 攘夷別勅使は10月27日に江戸に到着した。将軍家茂の病気のために対面は引き延ばされたが、12月5日に将軍は攘夷奉承を回答し、具体策については翌年の上洛時に協議することとなった。この対面は従来の慣例を破って勅使を上座に置いて行われた。
※この「攘夷奉承」の解説は、「八月十八日の政変」の解説の一部です。
「攘夷奉承」を含む「八月十八日の政変」の記事については、「八月十八日の政変」の概要を参照ください。
- 攘夷奉承のページへのリンク