所懐
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/19 22:54 UTC 版)
武力討幕を主張し、それらを総て成し遂げた官軍の将・板垣退助の心境に勝者としての奢りは微塵も無く、むしろ敗者に対する名誉恢復に注がれている。これは板垣が武士道精神に則り「昨日までの敵も降参したる上は皆等しく臣民」との考えのもと、官賊敵味方の禍根を後世に残し、日本民族統一の障壁となることを最も憂いたためである。 抑(そもそ)も戊辰戰爭の勃發せし原因は、新舊思想の相違より來る所の國政に關する議論の捍格と、各藩の間に於ける感情の軋轢(あつれき)にあり。其順逆の見地に於て徑庭あるが爲めに、稱して官軍といひ賊軍と呼ぶも、そは單に外形に過ぎずして、其忠を皇室に效(いた)さんとするの志や一(ひとつ)也。故に東北合縱(奥羽列藩同盟)の諸藩と雖も深く其心事を解剖する時は毫(すこし)も惡(にく)むべき所あるを見ず、これ蓋(けだ)し我が國民性の素養の然(しか)らしむる所にして、亦た我邦歴史の美を成す所以たるに外ならざる也。當時、「勤王論」といひ、「攘夷論」といひ、若(もし)くは「公武合體論」といひ、種々の議論交換せられたるが、天下の識者先覺者は期せずして、先づ萬事(私心)を放擲して國家の統一を圖(はか)り、主權を確立して獨立の基礎を鞏固にし、以て宇内列國(欧米列強)と對峙せざるべからずとの意見に一致し、加(くは)ふるに封建專制の弊を鑑(かんが)み、人爵を賤(いや)しみ天爵を貴ぶの思想、輿論の勢力となりて、遂に維新の改革を見るに至れり。即ち大體に於て西軍(新政府軍)はこの新思想の代表者たるに反して、東軍(旧幕軍)は舊思想の味方たるの觀ありき。換言すれば後者は保守主義に囚(とら)はれて現状維持を主張せるに反(はん)し、前者は統一主義を標榜して維新の改革を斷行せる也。而して當時東軍によりて代表せられたる奥羽諸藩の最も憂ひと爲せる所のものは、實に薩長の專横跋扈にありしも、予輩は即ち思(おも)へらく、豺狼路(みち)に當れり奚(いづく)んぞ狐狸を問(と)はん 。薩長にして他日横暴を逞(たくまし)ふせば、其時に及んで之を討伐するも未だ遅(おそ)しと爲さず。今日はたゞ國家の統一主權の確立を以て急務とすべきのみと、即(すなは)ち汗馬に鞭(むちう)ちて征討の事に從(したが)ひ、これが功を奏したる也。 — 板垣退助(『會津戊辰戰爭』序文より) 板垣がこの序文を寄せたのは、晩年80歳(亡くなる3年前)の時である。同書巻末には「本書編纂に際し多大の御援助を賜りたる芳名」の筆頭に「伯爵 板垣退助閣下」が挙げられており、次いで、元帥海軍大将伯爵 東郷平八郎閣下、子爵 松平保男閣下、松平健雄閣下、枢密院顧問官男爵 山川健次郎閣下、男爵 林權助閣下らが記されている。維新囘天の功を成し遂げた彼の感慨は、自らの手柄を誇示するわけでもなく、敵に対する恨みでもなただ切々と日本の将来に対する憂国の念、そして愛国心である。
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