所感派による党掌握、「51年綱領」の採択
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/21 01:03 UTC 版)
「51年綱領」の記事における「所感派による党掌握、「51年綱領」の採択」の解説
翌1951年2月、ソ連・中共の指示のもと、所感派は第4回全国協議会を開催して軍事方針を含む行動指針を採択。コミンフォルムは同年8月10日にこれを支持をする論文を出し、モスクワ放送を通じて「国際派は所感派主導下の党戦列に復帰すべきである」と日本国内の共産分子に対して呼びかけた。これにより所感派が日本共産党を掌握した。「日米反動を利する」分派活動としてコミンフォルムから批判された宮本らは、自己批判書を書いて所感派による"日本共産党"に復帰した。 続いて日本共産党は同年10月に第5回全国協議会を開催し、その中で「日本共産党の当面の要求 - 新しい綱領」(「51年綱領」)を採択した。 「51年綱領」の主な内容としては、以下のとおりである。 日本はアメリカ帝国主義の隷属化にある半封建的な植民地的国家である したがってこのアメリカの支配から我が国の国民を開放するためのいわゆる「民族解放」と32年テーゼに規定する我が国の半封建的な反動勢力を打倒するという「民主主義革命」とを結合した「民族解放民主革命」が当面する革命の任務である 日本の解放と民主的変革を、平和の手段によって達成しうると考えるのはまちがいである(これまでの平和革命方式を捨て、暴力革命を採ることを表明) この文章は、「米占領軍が日本のいたる所で耐えがたいような状況をつくることが必要だが、このためには愛国勢力の統一戦線結成を考えなくてはならない」とのヨシフ・スターリンの意向のもと、朝鮮戦争の兵站基地にあたる日本での後方撹乱を目論むソビエト連邦共産党側の指導によるものであり、国共内戦で成功を収めた「農村が都市を包囲する」という人民戦争理論が盛り込まれていた。なお、モスクワに派遣されていた国際派に属する袴田里見もこの内容に同意している。 5全協では、「51年綱領」とともに「われわれは武装の準備と行動を開始しなければならない」と題する軍事方針武装行動綱領(「軍事方針」)も打ち出され、日本共産党は火炎瓶を用いた武装闘争に突入し、殺人事件や騒擾事件をひきおこした。 このような日本共産党の非合法活動は、日本国民から非難されるところとなり、支持を失った日本共産党は、1952年(昭和27年)の第25回衆議院議員総選挙で全議席を失った。
※この「所感派による党掌握、「51年綱領」の採択」の解説は、「51年綱領」の解説の一部です。
「所感派による党掌握、「51年綱領」の採択」を含む「51年綱領」の記事については、「51年綱領」の概要を参照ください。
- 所感派による党掌握、「51年綱領」の採択のページへのリンク