獨立とは? わかりやすく解説

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どく‐りつ【独立】

読み方:どくりつ

[名](スル)

他のものから離れて別になっていること。「母屋から—した離れ

他からの束縛支配受けないで、自分意志行動すること。「—の精神」「—した一個人間

自分の力で生計を営むこと。また、自分事業を営むこと。「親から—して一家構える」「—して自分の店をもつ」

法律拘束を受けるが)他からの干渉拘束受けずに、単独にその権限行使できること。「司法の—」「政府から—した機関

一国または一団体が完全にその主権行使できる状態になること。「—を宣言する」「—したての若い国」「—国家

「独立」に似た言葉

独立

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/09/14 02:51 UTC 版)

独立(どくりつ、: independence)とは、

  • インディペンデント(つまり外部の制御から自由)な状態でいることやその事実[1][2]。他に束縛されたり、他からの支配を受けたりしないで、自身の力で行動すること[3]
  • 国家が、他の国家の制御や支配から自由である状態やその権利を指す[4]。国家の基本的権利とみなされている[4]。別の言い方をすると、他の国家に支配されず、「主権国家」として存在することである。

概説

最初の定義文で、「個人の独立」の定義と「国家の独立」の定義文を挙げたが、実際には、それらの中間的な存在に関する独立というのもある。 たとえば小さなグループが独立している状態、中規模や大規模の組織が独立している状態、民族が独立している状態などがある。

独立は自己決定権とも関係する概念なので、「自決権」や「自決」などとも表現されることがある。

民族に関してはしばしば「民族自決」と表現する。現在の国際法では、民族にも民族自決権が認められている。[注釈 1]

ただし、複数の民族が混ざった状態で住んでいると、しばしば一方の民族が、他方の民族の独立を侵害するような状態、つまり一方の民族が他方の民族を支配しようとしたり、実際に支配してしまう状態に陥る。複数の民族が入り乱れている大陸では、民族同士は優位を争い、他から支配されないようにしつつ、他を支配しようとする、などということはしばしば起きる。民族は国境線を越えて存在しているので、民族の独立と国の独立が相対立するような複雑な事態も生じうる(チェコスロバキアの成立により少数民族となったズデーテン地方の「ドイツ人問題」など)。

各存在の「独立」というのは、基本的に各存在がその独立を守ろうとすることによって守られる。独立がどのようにして守られるかと言うと、支配しようとする他者の試みに抵抗し、跳ね返したり「はねのける」ことによって守られる。一旦屈服してしまい、他者の支配を許してしまい、独立が失われてしまうと、たいていの場合、その独立を回復することはかなり困難になる。

個人の場合もそうだが、国の場合も同様で、その国の国民が独立を守ろうと努力し続けることによって、ようやくその国の独立は守られる可能性が高まる。国民が自国の独立を軽視しているようでは、周囲の国から侵略される可能性が高まり、独立を失ってしまう可能性が高まる。したがって、ほとんどの国では、防衛力を保持することに一定の予算を割き、兵力(防衛力)を保つ努力をしている。とくに近隣に強大な武力を持つ侵略志向の国家がある場合は、防衛のために相応の努力をしつづけなければならない。

もともと独立していた状態の国家が、その独立を奪われてしまうことがある。典型的なのは、他国からの武力による侵略を受け、抵抗しきれず、その支配下に入ってしまう場合である。

明らかに独立を失ってしまった状態としては、植民地被保護国信託統治領などがある。独立を失ってしまい、植民地となった地域に住む人々にとって独立というのは、人間が尊厳を持って生きる上で重要な物である。

独立運動

第二次世界大戦後には、民族自決の考えの下、世界各地で独立運動が起こり、アジアアフリカの植民地が次々と独立した。現在でも各地で独立運動は展開されている。

独立勢力に対して何らかの支援がなされる場合もあり、既存国に対して非難や制裁が加えられたり、独立勢力に対する資金や武器の供給、軍事的支援が行われる場合もあり、既存国からは内政不干渉の原則が主張されることも多い。

独立を回復しようとする側は、その地域を支配してしまった既存の「行政府」「国家」の側との、闘争状態に入り、既存の「国家」(行政府)の側の軍隊や警察と闘争したり、独立を求める勢力と既存の「国家」(行政府)の間で内戦となる例も多い。

一旦、大国の侵略によって独立を奪われてしまった場合は、独立を回復するための闘いは非常に厳しい道のりとなる。(ロシアに侵略されたチェチェン中国に侵略されたチベットなど)。

独立しようとする地域に資源が存在する場合など、「土地の利用価値」が高い場合には、大国がその地を支配しつづけようとする動機は強まり、独立しようとする側は一層の困難に直面する。(ナイジェリアビアフラ共和国インドネシアアチェアメリカ合衆国南部連合、など)

独立宣言

独立宣言とは、独立の際に発せられる、自国が独立した旨の宣言である。

有名な独立宣言としては、アメリカ独立宣言インドネシア独立宣言などがある。

独立宣言では、自国の正当性や掲げる理念、今後の方針などが盛り込まれることが多く、人権や自決権が謳われる。

(なお、独立宣言を出しただけで、確実に独立できるというわけではなく、独立宣言を出すとともに、国家の要件を満たす、満たしつづけるようにさまざまな施策を打つ必要がある)

国家の独立状態

国際法においては、国家の要件として一定の領域国民、及び主権が必要とされる。主権とは、その領域を排他的に支配する権力であり、いわば統治能力である。

独立の記念

独立を回復したこと、それを回復するのに多くの苦労や犠牲が払われたことを国民が忘れてしまったりしないように、それを記念する(心に記す、心に刻みこむ)ためにさまざまな方法がとられている。

ひとつは記念日を設定する方法である。独立したことや独立を回復したことを祝う記念日を「独立記念日 : independence day インディペンデンス・デイ」という。日本ではアメリカ合衆国の独立記念日が有名だが、ほかにも次のような国で独立記念日がある。

... などなどである(膨大な数なので当節内で全ては挙げない)。

他には記念碑を建立するということも行われている。こうした記念碑を「独立記念碑」という。たとえばメキシコメキシコシティの目抜き通りには独立記念碑 (メキシコ)が建立されている。 カンボジアではIndependence Monumentが、トルクメニスタンでもやはりIndependence Monumentが建立されている。ラトビアでは「自由の記念碑」という名称で(独立を含めて諸事を記念した)記念碑が建立されている。

また、独立にまつわる建物を設定して国民の啓発を行っている国もある。内部を独立にまつわる博物館にしていることが多い。アメリカのフィラデルフィアの独立宣言が出された建物は独立記念館となっている。スリランカにはIndependence Memorial Hallがある。ナミビアにはIndependence Memorial Museumがある。

他国からの承認

他国から「ある地域が独立した国家になっている」と言われるためには、その国が自国の独立を宣言するだけでなく、他国からも承認される必要がある。各国家はその地域を新たな国家として認めるか否か、つまり国家承認をするか否かを自由に決定することが出来るとされる。

ややこしいのは、「国家として認める」という国と、「国家として認めない」という国が、それぞれ存在する場合があることである。現在、世界には190ほどの国家が存在するが、たとえばA国が30カ国からは国家として認められているが、残りの160カ国からは国家として認められていない、というような状態が起きうるからである。この場合、承認した国にとっては「A国は独立国家として存在している」ということになり、承認していない国にとっては「A国は独立国家として存在していない」ということになり、話がかみあわない。

また、独裁国家などは、他国を侵略をしておいて、侵略した場所に(民主的な手続きも経ず)勝手に傀儡政権を設置して、まだ国家として十分成立しているとは言い難いものでも、強引に「国家として承認した」などと宣伝することがある。侵略国による国家承認は、非常にいかがわしいものである。

独立を侵害する侵略国家の手口

なお、ややこしいことに、大国が他国を侵略するための口実として「独立運動の当事者からの援軍要請」が主張されることがある。つまり、他国を侵略するような大国が言う「独立運動」は、実態としては傀儡政権であり、情報操作していて、「独立運動」であるかのように偽装していることがある。

日本国内のさまざまな「独立」に関する雑学

地方自治体などの独立
  • 市町村の行政区域の一部を分離して新しい市町村を設置すること(分立)を、国家の独立になぞらえて「独立」と表現する場合がある。
    • 例として板橋区の一部を1947年に分離して設立された練馬区では2017年に練馬区独立70周年記念事業を実施している[5]
  • 市町村などが擬似的な国(ミニ独立国)を立ち上げる際にも「独立」と表現する場合がある。都道府県独立国家論も参照せよ。
個人の独立

日本では、個人に関しては、以下のような例でも、「独立」という言葉が用いられる。

  • 実家を出て生活するとき。
  • 企業の雇用を離れて自ら起業するとき。
  • 師匠の元を離れて、自分の商売を持つとき。

脚注

注釈

  1. ^ ただし民族自決権が侵害されていたとしても、各国の利害が絡み、侵害者に制裁が加えられず、放置されてしまうことも多い。

出典

  1. ^ Lexico, Definition of independence
  2. ^ Lexico, Definition of independent
  3. ^ 精選版 日本国語大辞典【独立】
  4. ^ a b ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典【独立】
  5. ^ 練馬区独立70周年 練馬区、2017年10月28日閲覧。

関連項目

国家以外の独立関連

独立性易

(獨立 から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/12/27 15:20 UTC 版)

独立性易
1596年 - 1672年
生地 浙江省杭州府仁和県
宗派 臨済宗黄檗派
寺院 広寿山福聚寺
隠元隆琦
弟子 高玄岱北島雪山・年江直美
著作 『斯文大本』
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平林寺の戴渓堂
譜出秋声巻 東京国立博物館
「戴曼公治痘用法」(19世紀の写本)

独立 性易(どくりゅう しょうえき、万暦24年・慶長元年2月19日1596年3月17日) - 寛文12年11月6日1672年12月24日))は、中国末に生まれ、初に日本に渡来した臨済宗黄檗派禅僧である。医術に長け、日本に書法水墨画篆刻を伝えた。

その書の識見は高く中国伝統の本流の書を日本に示し、のちの唐様流行の基となった。また禅僧でありながら文人気質に富み、日本文人画の先駆けとなる水墨画を残している。同じく帰化僧の化林性偀とともに長崎桑門の巨擘と称賛される。篆刻においても日本篆刻の祖として称揚される。

俗姓を戴、をはじめ観胤、ついで観辰のちに笠とした。を子辰のちに曼公。日本で得度した後は独立性易(どくりゅうしょうえき)と僧名を名乗った。荷鉏人、天外一閒人(てんがいいっかんじん)、天閒老人、就庵などをとした。文人書家などからは戴曼公と称されることも多い。浙江省杭州府仁和県の出身。

略伝

父は戴敬橋、母は陳氏。父の戴敬橋は、7番目の双子の子供として杭州仁和県で誕生した。父は銓部で働く、善良な人として知られていた。母は姚江の陳竜江の娘であるとされている。祖先には晋の戴安道であるとされている。独立自身も祖先の誇りを大切にしていたようである[1]

幼い頃から才能に優れ、本を一度読むだけでたちまち暗記したという。そのため、早くから科挙の予備校である官学に通っていた[2]。しかしながら、科挙の文体である八股文を好まず、自ら詩を積極的に読むことはなかった。

独立が25歳、天啓元年・元和7年(1621)には独立にとって不幸なことがあったようである[3]。これが、独立が官職あるいは、科挙の受験勉強を放棄した直接の原因と考えられる。

官職あるいは科挙の受験勉強を放棄した独立は、故郷である杭州を離れ、西湖に隠居した。30歳をすぎる頃になっても、八股文を好まず、詩を読むことはなかった。しかしながら、西湖周辺の友人に詩の才能を披露することを迫られ、とっさに詩を読み、友人たちを感嘆させ、それ以降は積極的に詩を読むようになった。独立が突然詩を読むようになったのは、風光明媚な西湖に触れたことが影響していると指摘されている[4]

順治元年・正保3年(1644)にはが滅亡し、が台頭した。祖先である戴安道の誇りを受け継いだともに、漢民族の誇りを受け継いだであろう独立にとっては、漢民族国家の没落は耐え難いことであろう。逃げるような形で杭州からさらに離れた長水の語渓へと移動した[5]

語渓では医術を生業として生計を立てていた。次第に生活が落ち着く中で、永暦7年・承応2年(1653)の早春に粤人の紹介で船に乗り、日本へと着岸した。独立は船に乗ったのは、日本に亡命することが目的ではなく、気晴らしのために船に乗ったとされている[6]

独立を乗せた粤人船は3月に長崎へと着岸した。当時の日本はいわゆる鎖国体制が引かれており、独立も例外ではなく、長崎奉行の甲斐庄喜右衛門(橘正述)に抑留された。当初の独立は中国の帰国を望んでいたと推測されるが、甲斐庄喜右衛門が国禁を差し置いて、独立の日本滞在を懇願した[7]甲斐庄喜右衛門がなぜ国禁を差し置いてまで、独立の日本滞在を懇願したのかについては定かではないが、独立の書や篆刻、医療といった才能を高く評価したことはうかがえるであろう。

抑留から開放された後には、同じく杭州出身の穎川入徳(陳入徳)の家に滞在していた。このときに、同じく入徳の家に滞在していた朱舜水とも交流しており、明の再興等について議論を交わしたと推測される。

翌年の承応3年(1654)には隠元隆琦が日本に渡来した。独立が日本渡来以前に仏教に興味を持っていたかどうか定かではないが[8]、隠元と出会い、仏門に帰依することを決めた[9]。このときに独立性易と名乗る。

隠元は将軍に合うために東上を開始し、独立もこれに従った。途中摂津普門寺に3年ほど滞在するなどして、万治元年(1658)9月に、隠元が将軍徳川家綱に謁見している。この時、執政として儀式を執り行ったのは老中の松平伊豆守信綱である。また、官僚には源正重がいたとされているが、この人物については定かではない。

独立は老中をはじめとした高官と交流し、その才能を高く評価された。その中でも、松平伊豆守信綱は、独立のことを非常に気に入り、自身の菩提寺である平林寺に招待した。平林寺に案内され、滞在することも進められたが、事情により実現することはなく、万治2年(1659)に長崎へと戻った。

長崎に戻った独立は3年ほど、興福寺幻寄山に籠もった。自著『斯文大本』を元に『書論』を著し正しい書法の啓蒙に努めた。明代の新しい篆刻を伝え日本の篆法を一新した。また初めて石印材に刻する印法を伝えた。

幻寄山での修行を終えた独立は、以降長崎奉行所に仕えることとなった。これ以前は僧として日本各地に赴き活躍していたが、これ以降は医者として日本各地に赴き活躍した。

最初に赴いたのは福岡藩である。寛文4年に、福岡藩士の奥西善左衛門が病気のため、独立が派遣されることになった。しかしながら、独立が出発する前に奥西善左衛門の病状が回復し、独立自身の体調も優れなかったために、長崎に滞在し、自身の治療に専念する こととした。独立の体調が回復したのちに、改めて、福岡藩士の奥西善左衛門の所へと出発し、長崎と福岡を往復しながら、治療を行った。

次に赴いたのは岩国藩である。岩国藩3代目藩主である吉川広嘉は幼い頃から病状に悩まされており、かねてから数多くの医師の往診を受けていた。そのような中で、長崎でオランダ医術を学んでいた岩国藩士の朝枝喜兵衛から、長崎に独立性易という優秀な医師がいることを聞いた。そこで、寛文4年(1664)2月22日に、広嘉の侍医である佐伯玄東を長崎に派遣した。そこでは、広嘉の病状を独立へ伝え、治療法を尋ね、実践したようであるが、回復することをなかった。

そこで、長崎の皓台寺で住職をしていた岩国出身の月舟宗林の勧めを受けて、独立を岩国に招待することとした。岩国から佐々木弥左衛門を長崎に派遣し、独立を迎えに向かった。 この時、独立には通訳として、唐通事の独健が同行した。そうして、独立が初めて岩国に到着したのは、寛文 4 年(1664)4 月13日のことである。

岩国に到着した独立は、広嘉と対面し、往診を行った。往診と合わせて雑談を行なったようであるが、広嘉と独立の会話は、非常に弾んだものとなった。広嘉は学識が高く、また中国文化にも大変興味を持っていた。そのため、中国から渡来してきた独立は、広嘉にとって知識の宝庫であり、話の一つ一つが興味深かったことであろう。会話の中で、独立が住んでいた杭州西湖の話題が挙がった。その中で独立は、知り合いである何遠候が『西湖遊覧志』一式を保有していることを伝えると、広嘉は大変興味を持ち、それを見たいと希望した。

それを受けて、即座に飛脚を走らせ、『西湖遊覧志』を取りに行くこととなった。飛脚が戻り『西湖遊覧志』を広嘉に見せると、広嘉は机を叩いて大層喜んだという。独立にとってはなぜ、広嘉がここまで喜んだのか理解できていなかったようである。しかしながら、これが現在の山口県岩国市に位置する錦帯橋の創建において重要なヒントとなり、結果的に独立が錦帯橋の構想に重要なヒントを提供する形となった。

その後、独立は広嘉の往診のために定期的に岩国藩へと赴いている。そこでは文化的交流が行われており、独立にとっても相当居心地が良かったのであったと推測されている。

寛文5年(1655)には、隠元の僧団として行動を共にした雪峰(即非如一)が広寿山に福聚寺を開山したことを受けて、独立が招待された。書記となり白雲室を与えられている。

それ以降も、岩国藩佐賀藩など各地を行脚し、藩士や大名などの往診を行った。しかしながら、寛文8年には、独立自身が老齢となり、足腰や体調を優れなくなったことから、これ以降、医者として長崎奉行所に仕えることを辞め、どこの藩にも赴かないことを決めた。

寛文11年には、師である隠元に会いに行くために宇治へ行きたいという旨を長崎奉行所に伝え、8月頃に宇治へと向かう予定であった。途中、中国から独立の孫2人が日本に訪れた。孫2人は独立を中国に迎えに来たようであるが、独立の帰国の意思はなく、孫を中国へと帰らせた。ここには独立の体調と、宇治へと向かう予定があったことが関係していると考えられるが、それは実現することはなく、同年11月に、崇福寺広善庵で示寂する。享年78。荼毘に付され遺骨は従者の慧明・祖明によって宇治黄檗山萬松岡(ばんしょうこう)に奉じられた。

正徳6年(1716年)に弟子の高玄岱が独立を記念して武蔵平林寺に戴渓堂を建立し、享保3年には高松の弟子年江直美と共に木牌を建て行状[10]を記した。

明治23年(1890年)、中井敬所によって『独立禅師印譜』が編集され、現在東京国立博物館に所蔵されている。この印譜に鈐された印は独立が中国から持ち込んだ印で、弟子玄岱に授けられたものが代々の門弟を通じて敬所に届いたものである。

他に書家の北島雪山も弟子となっている。

著作

  • 『斯文大本』
  • 『一峰双詠』
  • 『西湖懐感三十韻』
  • 『就庵独語』
  • 『東矣吟』
  • 『痘疹百死伝』
  • 『痘科鍵口訣方論』

脚注

  1. ^ 大石紗蓼『独立性易禅師の篆刻と岩国』五橋文庫、2022年、4頁。 
  2. ^ 一方で科挙官僚となったのかについては先行研究の中でも議論が分かれている。
  3. ^ 不幸なことが何であったのかということに関しては先行研究の中でも議論が分かれている。『明独立易禅師碑銘併序』においては「年二句有五。罹会城災。又当魏豎乱朝。竟 捨呫嗶捨。」と記述されており、「会城災」と「魏豎乱」が具体的な事柄として挙げられている。後者の「魏豎乱」は、明末の魏中豎を中心とした宦官の権力争いとして解釈できる。一方で、前者の「会城災」については、今関や石村は火災によって家財を失ったと解釈しているが、賈や大石は父の死去と解釈している。
  4. ^ 『独立性易禅師の篆刻と岩国』五橋文庫、2022年、5-6頁。 
  5. ^ この長水語渓の具体的な場所については定かではないが、錢塘江流域のいずれかであろうと考える。一方で、Wikipediaの過去の版では、崇徳県語渓とされていた。
  6. ^ 『僧独立と吉川広嘉』岩国徴古館、1974年、8頁。 
  7. ^ 徐興慶 (2011). “日中文化交流の伝播と影響―徳川初期の独立禅師を中心にー”. 日中文化交流の伝播と影響―徳川初期の独立禅師を中心にー (お茶の水女子大学比較日本学教育研究センター) 7: 169. 
  8. ^ 大石によると、中国にいた頃は 儒学に精通しており、仏教に触れることはここが初めであるとしている。一方で、賈は、 清朝の「薙髪令(辮髪令)」という圧力を受けて、「遺民僧」となった背景はあるものの、独 立が仏教者と関わっており、仏教に対する関心を持っていたとしている。
  9. ^ 独立が仏門に帰依した理由については先行研究の中でも議論が分かれている。賈は「隠元書紀説」、「法威感動説」、「生活維持説」の3つに整理している。「隠元書記説」は独立が書に長けていたということから、隠元の僧団に書記として参加したというものであり、高井や大石52が主張しているが、徐はこれを否定している。一方で、「法威感動説」は『明独立易禅師碑銘併序』の「大振法威。」に典拠を求めることができる。隠元の法威な姿をみて、感化 され仏門に帰依したというものである。これに対して、「生活維持説」は僧となることで新たな進路を見出すというものである。
  10. ^ 高玄岱『明独立易禅師碑銘并序』

参考文献

  • 中田勇次郎『日本の篆刻』二玄社、1966年
  • 石村喜英「黄檗独立禅師交遊の一側面」(『仏教史研究』4、1969年)
  • 大槻幹郎『文人画家の譜』ぺりかん社、2001年
  • 大槻幹郎編『黄檗文化人名辞典』1988年 思文閣出版 ISBN 4784205381
  • 徐興慶「日中文化交流の伝播と影響―徳川初期の独立禅師を中心にー」『比較日本学教育研究センター研究年報』第7巻、お茶の水女子大学比較日本学教育研究センター、2011年
  • 今関天彭『近代支那の学芸』民友社、1931年
  • 辻善之助『日支文化の交流』創元社、1942年
  • 桂芳樹『僧独立と吉川広嘉』岩国徴古館、1974年
  • 高井恭子「明末帰化中国僧の学識について」『印度學佛敎學硏究』第97巻、日本印度学仏教学会、2000年
  • 賈光佐「初期江戸僧諍研究―独立性易と黄檗僧との論争について」『禪學研究』第101巻、禪學研究會、2023年
  • 徐興慶「越境する日中文化・思想交流史の序」『南山大学アジア・太平洋研究センター報』第12巻、南山大学アジア・太平洋研究センター、2017年
  • 賈光佐「戴曼公(独立性易)の遺民性格―その中国時期の行動を中心に」『儒学文化研究所紀要』第14巻、東日本国際大学東洋思想研究所、2024年
  • 石田恭子「独立性易の書と学問―明書風受容の背景」『黄檗文華』第116巻、黄檗文化研究所、1996年
  • 石村喜英『深見玄岱の研究 : 日中文化交流上における玄岱伝と黄檗独立禅師伝』雄山閣、1973年
  • 大石紗蓼『独立性易禅師の篆刻と岩国』五橋文庫、2022年
  • 伊香賀 隆「独立性易『護法論抄序』の翻刻と解説」『佐賀大学地域学歴史文化研究センター研究紀要』第8号、佐賀大学地域学歴史文化研究センター、2014年
  • 徐興慶「十七世紀の東アジア文化交流: 黄檗宗を中心に」國立臺灣大學出版中心、2018年
  • 賈光佐「戴曼公(独立性易)の遺民性格 : その中国時期の行動を中心に」『研究東洋』第14号、東洋思想研究所,2024年
  • 斎藤長秋編 他『江戸名所図会』角川書店、1967年
  • 長崎歴史文化博物館『長崎の黄檗 : 隠元禅師と唐寺をめぐる物語』「長崎の黄檗展」実行委員会、2022年
  • 高井恭子「黄檗僧独立性易の経史批判の特色―唐朝における正史整備事業と仏教の関係」『東海仏教』第46巻
  • 徐 興慶「「儒、釈、道、医」を通じた日中文化交流―戴笠から独立性易へという流転の人生」『十七世紀の東アジア文化交流 : 黄檗宗を中心に』臺大出版中心、2018年
  • 高井恭子「「文」と『黄檗清規』」『印度學佛教學研究』第48巻日本印度学仏教学会、1999年
  • 高井恭子「獨立性易の六義解釈について―王羲之批判を論點として―」『黄檗文華』第118巻、黄檗文化研究所,1998年
  • 賈 光佐「独立性易撰『元亨釈書評閲』の史料的価値と思想的立場」『印度學佛敎學硏究』第70巻、日本印度学仏教学会、2021年
  • 賈 光佐「独立性易の三教一致論批判について」『印度學佛敎學硏究』第71巻、日本印度学仏教学会,2023年

関連項目


独立(京白木屋開業)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/23 02:45 UTC 版)

大村彦太郎 (初代)」の記事における「独立(京白木屋開業)」の解説

太郎良疇寺(現長浜市下坂浜)の法山和尚について学び和尚より商人として身を立てることを勧められ、後に長浜を出る時小さな観音像和尚より贈られたと伝えられている。河崎家で彦太郎同家家業手伝い材木販売のため諸国を回るなど材木屋としての修行行ったこの頃から既に商才長けていたとも言われている。彦太郎数え17歳の(慶安4年-5年1651年-1652年頃)、京「寺の内」と言う所に家を持ち河崎家が商う白木材木分けてもらい商売をすることとなった河崎家からは資金商品支援加えて白木屋」の屋号贈られた。なお、彦太郎が京に出た直後先に京で暮らしていた叔父三輪道祐の子沢村)自三宅一時寄寓したと伝えられている。開店後、彦太郎材木商「白木屋太郎」として諸国材木販売で回る傍ら綿布行商行った

※この「独立(京白木屋開業)」の解説は、「大村彦太郎 (初代)」の解説の一部です。
「独立(京白木屋開業)」を含む「大村彦太郎 (初代)」の記事については、「大村彦太郎 (初代)」の概要を参照ください。

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独立

出典:『Wiktionary』 (2021/11/10 04:49 UTC 版)

この単語漢字
どく
第五学年
りつ
第一学年
音読み

発音

名詞

(どくりつ)

  1. 他の束縛助け受けず自分の力で行動すること。
  2. 国家が完全に主権行使している状態。
  3. 一つだけが離れてになっていること。

関連語

翻訳

動詞

活用


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