『獨立評論』主幹
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明治33年(1900年)には『高山彦九郎』を、翌34年(1901年)には『青年立身録』『読史論集』を刊行。明治35年(1903年)には『懺悔』を刊行。同年には信濃毎日新聞をやめて上京、1月より雑誌『獨立評論』を創刊した。 創刊号には、内村鑑三への公開状ともいうぺき「余は何故に帝国主義の信者たる乎」が掲載された。これは内村が明治28年(1895年)に発表していた「余は如何にして基督信徒となりし乎」をもじった題であった。 内村はこの愛山の公開状に対して『正教新報』において、『獨立評論』第1号の書評を試みつつこの論文に言及し、愛山を徳富蘇峰とともに「君子豹変の実例」ときめつけた。内村は日清戦争については「義戦」として評価していたが、その後の戦禍について平和主義に傾き、日露戦争開戦前には非戦論を主張していた。 明治37年(1904年)2月、日露戦争勃発と同時に『日露戦争實記』を発刊し、「草木皆兵」を論じ、愛国心の鼓舞につとめた。4月には『戦争に於ける青年訓』を刊行した。 明治38年(1905年)2月には『孔子論』を出版。以降41年に至るまで中国思想史に関する論文が連続『獨立評論』に掲載されている。
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