笠置山の霊夢とは? わかりやすく解説

笠置山の霊夢

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 04:59 UTC 版)

楠木正成」の記事における「笠置山の霊夢」の解説

軍記物語『太平記』流布本巻3「主上御夢の事附の事」では、楠木正成後醍醐天皇出会いは以下のように描かれる。しかし、歴史的事実としては、『天竜寺文書』により、遅くとも元弘の乱発生以前である元徳3年1331年2月には、正成が後醍醐天皇方に付いていたことが明らかである。 元弘の乱発生し天皇笠置山籠ると、笠置寺衆徒近国豪族らが兵を率いて駆けつけてきたが、名ある武士や、百騎、二百騎を率いた大名などは一人も来なかった。そのため、後醍醐天皇皇居警備ままならない不安になり、心配になって休んだ際に夢を見た。その夢の中では、庭に南向き伸びた大きな木があり、その下には官人が位の順に座っていたが南に設けられていた上座にはまだ誰も座っておらず、その席は誰のために設けられたものなのかと疑問思っていた。すると童子来て「その席はあなたのために設けられたものだ」と言って空に上って行ってなくなってしまった。 夢から覚めて天皇夢の意味考えていると「木」に「南」と書くと「」という字になることに気付き、寺の衆徒にこの近辺という武士はいるかと尋ねたところ、 河内国石川郡金剛山現在の大阪府南河内郡千早赤阪村)に橘諸兄の子とされる楠木正成楠正成)という者がいるというので、後醍醐帝はその夢に納得しすぐさま楠木正成笠置山呼び寄せる事にした。万里小路藤房勅使として笠置山から河内向かい、正成の館に着いてその事情を説明した。すると、正成は「弓矢取る身であればこれほど名誉なことはなく、是非の思案にも及ばない」と快諾した。そして、正成は人に気が付かれないようにすぐさま河内出て笠置山参内した。 正成は後醍醐天皇から勅使派遣より時を置かず参内したことを褒められそのうえで正成がどのような計画持ち勝負一気決めて天下太平にするのかを問われた。正成はこの問い対し、「幕府大逆天の責め招き、衰乱の機会乗られ天誅下されます。その好機なら必ず滅ぼすことができます天下草創には武略智謀2つあります勢い任せて合戦行えば、たとえ60余州の軍勢をもってしても武蔵相摸領国勝利を得ることはできないでしょう。もし何らかの策を用いて戦えば、幕府守勢回って欺きやすくなり、怖れるに足らなくなるでしょう合戦の常は個々勝敗こだわらないことです。(たとえ戦いで敗れたとしても)正成がたった一人生存していれば、天皇聖運が必ず開けると御思い下さい」と述べた。そして、正成は河内戻り赤坂城下赤坂城)で挙兵した。

※この「笠置山の霊夢」の解説は、「楠木正成」の解説の一部です。
「笠置山の霊夢」を含む「楠木正成」の記事については、「楠木正成」の概要を参照ください。

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