笠置山・下赤坂城の戦いとは? わかりやすく解説

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笠置山・下赤坂城の戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 14:26 UTC 版)

元弘の乱」の記事における「笠置山・下赤坂城の戦い」の解説

詳細は「笠置山の戦い」および「下赤坂城の戦い」を参照 元徳3年4月29日1331年6月5日)、後醍醐側近である吉田定房六波羅探題倒幕計画密告し、またも計画事前に発覚した六波羅探題軍勢御所中にまで送り後醍醐女装して御所脱出し比叡山へ向かうと見せかけ山城国笠置山挙兵した。後醍醐皇子護良親王や、河内国悪党楠木正成もこれに呼応してそれぞれ大和国吉野および河内国下赤坂城挙兵した。 幕府大仏貞直金沢貞冬足利高氏(後の尊氏)、新田義貞らの討伐軍を差し向けた9月笠置山陥落笠置山の戦い)、次いで吉野陥落し楠木軍が守る下赤坂城のみが残った。ここで幕府軍苦戦を強いられる楠木軍は城壁取り付いた幕府軍に対して大木落としたり、熱湯浴びせかけたり、予め設けておいた二重塀を落としたりといった奇策駆使した。だが楠木正成は、長期間抗戦不可能であると理解していた。10月、自ら下赤坂城に火をかけて自害したように見せかけ、姿をくらませた(赤坂城の戦い)。 後醍醐側近千種忠顕とともに幕府捕らえられた。幕府持明院統光厳天皇即位させ、元号正慶改めさせるとともに元弘2年/正慶元年1332年)、日野俊基北畠具行先に流罪となっていた日野資朝らを斬罪とし、後醍醐隠岐島配流した。こうして倒幕運動鎮圧されたかに見えた

※この「笠置山・下赤坂城の戦い」の解説は、「元弘の乱」の解説の一部です。
「笠置山・下赤坂城の戦い」を含む「元弘の乱」の記事については、「元弘の乱」の概要を参照ください。

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