尊忠の死後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/03 05:42 UTC 版)
大坂落城の際、尊忠の遺言により尊忠の妻は孫の頼茂や家人5、60人を連れて鷹山を目指したが、尊忠の妻はその途中で毛利秀元に捕らえられた。尊忠の妻は秀元に厚く労わられ、秀元の娘が稲葉美濃守に嫁ぐのに際して於中(おなか)と号し、その介添に付けられた。その後病気となって暇を乞い、寛永14年(1637年)8月6日、武蔵国川越城主の松平信縄の家臣で、自身の従弟である和田理兵衛清元の家で死去した。法名、月窓永秋尼。 一方、大坂城を出た後、祖母と離れ一人になった頼茂は、乱妨を受けて山城国加茂に連れ去られるも無事鷹山に戻ってくる。その後、美作国の森忠広や丹後国宮津の京極高広に仕えた後、南都に移住した。頼茂の子(尊忠の曾孫)に、東大寺大仏殿の再興に尽力した公慶がいる。
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