日中戦争以降、晩年
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1935年(民国24年)11月、張知本は国民党第5期中央委員候補に選出された。翌年、北平朝陽大学校長に招聘され、1937年(民国26年)3月には司法院秘書長を兼ねたが、主に前者の任務に集中した。日中戦争(抗日戦争)勃発後、張は朝陽大学を避難させ、長沙・成都・重慶への移転事業を進めている。張の学院運営は自由かつ開明的であったが、そのために国民政府教育部長陳立夫からは「共産党の巣」と見なされて監視・統制の対象とされてしまう(重慶への移転はその一環であった)。1942年(民国31年)、張は初代行政法院院長に任ぜられ、1945年(民国34年)5月には国民党第6期中央監察委員に選出された。 戦後、張知本は蘇浙皖敵偽産接収清査団団長に任ぜられる。1946年(民国35年)、制憲国民大会代表に選出され、翌1947年(民国36年)には行憲国民大会代表に再選された。また、国務会議法制審査委員会委員にもなっている。1949年(民国38年)1月、蔣介石が一時下野に追い込まれ、副総統李宗仁が総統代理になると、張は再び行政法院院長に起用された。 国共内戦で国民党の敗北が決定的になると、張知本は台湾に逃れた。台湾では総統府国策顧問や同府資政に任ぜられる。その後も、光復大陸設計研究委員会(中国語版)副主任委員や国民党中央評議委員、国民大会憲政研討委員会常務委員等を歴任した。法学者としては、中国憲法学会や中国刑法学会で理事長を務め、後に中華学術院名誉法学博士号を授与されている。 1976年(民国65年)8月15日、台北市にて病没。享年96(満95歳)。
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