日中戦争以降、晩年とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > 日中戦争以降、晩年の意味・解説 

日中戦争以降、晩年

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/17 15:35 UTC 版)

張知本」の記事における「日中戦争以降、晩年」の解説

1935年民国24年11月張知本国民党第5期中央委員候補選出された。翌年北平朝陽大学校長に招聘され1937年民国26年3月には司法院秘書長兼ねたが、主に前者任務集中した日中戦争抗日戦争勃発後、張は朝陽大学避難させ、長沙成都重慶への移転事業進めている。張の学院運営は自由かつ開明的であったが、そのために国民政府教育部陳立夫からは「共産党の巣」と見なされて監視統制対象とされてしまう(重慶への移転はその一環であった)。1942年民国31年)、張は初代行政法院長に任ぜられ、1945年民国34年5月には国民党第6期中央監察委員選出された。 戦後張知本浙皖敵偽産接収清査団団長に任ぜられる。1946年民国35年)、制憲国民大会代表に選出され、翌1947年民国36年)には行憲国民大会代表再選された。また、国務会議法制審査委員会委員にもなっている。1949年民国38年1月蔣介石一時下野追い込まれ副総統李宗仁総統代理になると、張は再び行政法院長起用された。 国共内戦国民党敗北決定的になると、張知本台湾逃れた台湾では総統府国策顧問や同府資政に任ぜられる。その後も、光復大陸設計研究委員会中国語版副主任委員国民党中央評議委員国民大会憲政研討委員会常務委員等を歴任した法学者としては、中国憲法学会中国刑法学会で理事長務め、後に中華学術院名誉法学博士号を授与されている。 1976年民国65年8月15日台北市にて病没享年96(満95歳)。

※この「日中戦争以降、晩年」の解説は、「張知本」の解説の一部です。
「日中戦争以降、晩年」を含む「張知本」の記事については、「張知本」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「日中戦争以降、晩年」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「日中戦争以降、晩年」の関連用語

1
8% |||||

日中戦争以降、晩年のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



日中戦争以降、晩年のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの張知本 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS