日中戦争下での活動
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/20 13:45 UTC 版)
彼らの目的は国民政府と共同で日本軍に抗戦し、その中で宗教的活動を行うことだった。戦時下における宗旨は「国民政府を擁護すること、三民主義に適応した行動を促進していくこと、抗戦建国に協力すること」であり、1939年、理事長の白崇禧は全職員への訓話の中で、協会は「救国と救教」の組織だと強調し、ムスリムに対して日本への抗戦を訴えた。協会の会則においても、その活動は宗教の宣伝、ムスリムの組織化・訓練、抗戦参加への宣伝、ムスリム教育の推進と援助などと規定されていた。 戦時下での具体的な活動としては、中国のモスクやイスラーム学校、ムスリムを対象とした調査、機関誌など出版物の発行や学術講演会の挙行といった国内での宣伝、モスクの管理やクルアーンの中国語訳といった教務、農場や工場の建設といった生産活動などが挙げられる。また、イスラームを侮辱する本の取り締まりの要請、被災したムスリムの救済、イスラーム学校の設立などムスリムの地位を向上させる活動も行った。これらの中でも、特に調査事業は回教救国協会が全国組織として活動するうえでの基礎となった。また、エジプト留学団の結成、中馬文化協会(中国-マレー文化協会)や中伊文化協会(中国-イスラーム文化協会)準備組織の設立を行い、マッカ巡礼団の派遣などの国際交流は中華民国とほかのイスラーム諸国との関係を保つ助けとなった。 また、日中戦争下においても各地の支部ではイスラームの祭りが執り行われていた。ラマダン明けには日中戦争勝利への祈祷と同胞への追悼が行われ、1944年に重慶で行われた犠牲祭にはイラン公使やその秘書、トルコ大使館の秘書といったイスラーム諸国の使節も参加した。 協会は、当時盛んになった憲法論議にも目を向けた。1940年1月11日の常務理事会において、憲政研究会を組織し、ムスリムを指導して選挙の運用を補助することが提案された。機関紙である「中国回教救国協会会刊」においても憲政問題の記事が増え、1936年に国民政府が交付した中華民国憲法草案、いわゆる五五草案を掲載し、ムスリムの立場から慎重な審査を加える必要があることを示した。 1942年に2回目の全体会員代表大会が開かれ、名称を現在まで使用されている中国回教協会に改めた。
※この「日中戦争下での活動」の解説は、「中国回教協会」の解説の一部です。
「日中戦争下での活動」を含む「中国回教協会」の記事については、「中国回教協会」の概要を参照ください。
- 日中戦争下での活動のページへのリンク