フランス、スコットランドへの対応
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/19 16:15 UTC 版)
「ヘンリー4世 (イングランド王)」の記事における「フランス、スコットランドへの対応」の解説
1405年の反乱平定以後ヘンリー4世は体調を崩し、政治運営がままならなくなったため、王太子が代わって国政に関与するようになり、ウェールズ平定の功績が大きいこともあり人気が高まっていた。百年戦争で休戦中のフランスに対する外交でヘンリー4世と王太子父子は対立、内乱で混乱しているフランスへの軍事介入に慎重なヘンリー4世に対し、王太子は北フランスへの積極的進出を唱えたため、1412年にヘンリー4世は補佐を行う評議会のメンバーを入れ替えて王太子を始めとする主戦派を更迭、次男のトマスなど自派の人間に交替させたため一時父子の仲は悪化したが程無く和解している。 ただ、ヘンリー4世もフランス進出に意欲的な時期があった。1403年、自身の再婚を切っ掛けにフランス北西部に当たるブルターニュへの介入を狙い、ブルターニュ公ジャン4世の未亡人ジャンヌ・ド・ナヴァール(ジョーン・オブ・ナヴァール)と再婚する。しかし、ヘンリー4世の意図を見抜いたブルターニュ貴族オリヴィエ・ド・クリッソンの計らいでジャンヌと先夫との間の息子達(ジャン5世、アルテュールなど)はイングランドへ連れて行かれないようフランス王室へ預けられ、ヘンリー4世の目論見は頓挫した。ジャンヌとヘンリー4世との間に子供はいない。 他の事跡として、1406年、スコットランド王ロバート3世の嗣子ジェームズ(後のジェームズ1世)を捕らえ、人質とした。この時期のスコットランドはフランスとの同盟で油断出来なかったが、内乱で分裂していた上、ジェームズの安全を考えると迂闊な行動を取れずイングランドの脅威では無かった。また1407年、父の3度目の夫人キャサリン・スウィンフォードとの間に生まれた4人の異母弟妹(ジョン、ヘンリー、トマス、ジョウン)たちが将来の王位継承の不安材料となるため、「キャサリンの子女の嫡出は認めるが、王位継承の権利は排除する」と改めた。 1413年3月20日、リトアニア遠征の時にかかった伝染性疾患のため、ウェストミンスター寺院にて崩御した。最期の状況は、ヘンリー4世が寺院内のエドワード懺悔王の礼拝堂で祈っていた所、発作に襲われそのまま崩御したとされ、そこに飾ってあったリチャード2世の肖像画に見つめられていたといわれる。遺言によりカンタベリー大聖堂へ埋葬され、王太子がヘンリー5世として即位した。
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