最期に纏わる諸説
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/08/21 14:18 UTC 版)
義弘との戦いは諸説あり、上記のように待ち伏せて弓で狙らい討とうとしたとの説(「日州木崎原御合戦伝記」他)と、殿による槍同士の一騎討ちだったとする説(「三国名勝図会」他)、島津兵に囲まれて討たれたとする説(「日向纂記」)もある。 また攻撃が外れた後、義弘に降伏を促されたが「二君に仕えず」と断って討たれたとする説(「三国名勝図会」)もあるが、弓を投げ捨てて義弘に恭順すべく平伏したが、策ではないかと警戒した義弘に槍で突き殺されたとする説(「日州木崎原御合戦伝記」他)もある。その場合、義弘が子孫を召しだしたのは、恭順を示した者を討ち取った自戒の念からとされる。
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