最期と再びの衰退へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/28 06:19 UTC 版)
「アシュラフ・バルスバーイ」の記事における「最期と再びの衰退へ」の解説
ティムール朝の君主・シャー・ルフは支援していた白羊朝などが大敗したのをみて自らの遠征を決意。バルスバーイもティムール朝との直接対決の準備を進めていたが、決戦直前の1438年に急死した。 バルスバーイは遺言で後継者には息子のユースフを望んでいたが、配下のザーヒル・ジャクマクがユースフを廃して即位し、世襲はならなかった。またバルスバーイという中興の英主を失ったマムルーク朝では再び継承争いが頻発して王朝は急速に衰退し、バルスバーイの死から約80年後の1517年にオスマン朝のセリム1世にマムルーク朝は滅ぼされた。
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