最期とその後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/02 14:07 UTC 版)
田単のいる即墨と湣王横死後に即位した法章(襄王)のいる莒(淖歯は裏切りに憤慨した市民に殺されていた)のみは燕になおも抗戦した。戦いが長期化する中で前279年に昭王は病死し、太子が恵王として即位した。 恵王は太子時代から楽毅と仲が悪く、昭王が死ぬと田単による離間策にかかった恵王は楽毅を召還して誅殺しようとしたが楽毅は趙に亡命した。恵王は騎劫という将軍を新たな司令官として送ったが、恵王の不当な人事に燕軍の士気は一気に低下し、昭王の時代に奪った斉の70余城は全て奪い返された。
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