正造の最期とその後
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土地の強制買収を不服とする裁判などがあり、この後も精力的に演説などを行ったが、自分の生命が先行き長くないことを知ると、1913年(大正2年)7月、古参の支援者らへの挨拶回りに出かける(運動資金援助を求める旅だったともされる)。その途上の8月2日、足利郡吾妻村下羽田(現・佐野市下羽田町)の支援者・庭田清四郎宅で倒れ、約1ヵ月後の9月4日に同所で客死した。71歳没。『下野新聞』によれば、死因は胃ガンなど。 財産は全て鉱毒反対運動などに使い果たし、死去したときは無一文だったという。死亡時の全財産は信玄袋1つで、中身は書きかけの原稿と『新約聖書』、鼻紙、川海苔、小石3個、日記3冊、帝国憲法と『マタイ伝』の合本だけであった。なお、病死前の1月22日に、小中の邸宅と田畑は地元の仮称旗川村小中農教会(現・小中農教倶楽部)に寄付していた。邸宅は現在、小中農教倶楽部が管理している。 雲龍寺で9月6日に密葬が行われ、10月12日に佐野町(現・佐野市)惣宗寺で本葬が行われた。参列者は一説に30万人ともいわれる。 田中の遺骨は栃木・群馬・埼玉県の鉱毒被害地計6箇所に分骨された。このため、墓は6箇所にある。なお、このうち1箇所は1989年(平成元年)に公表されたもので、それ以前の文献では5箇所とされていた。被害地では現代も偉人として尊崇されており、特に佐野市では田中思想や活動を伝える市民団体「田中正造大学」が活動しているほか、佐野市郷土博物館が関連資料を保存・展示している。 足尾銅山は1973年(昭和48年)に閉山となり、輸入鉱石の製錬も1988年(昭和63年)に終わった。燃料調達のための伐採と煙害によって樹木が失われた山は現在でも禿山が広がり、緑化作業が続けられている。そして田中が明治天皇へ行おうとした直訴状は、2014年(平成26年)5月21日に渡良瀬遊水地や田中の出生地である佐野市を訪れた125代天皇明仁(当時)へと伝えられることとなった。直訴未遂から実に113年後のことであった。
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