最晩年の除名
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議員引退後には、1970年代から書きついで来た自叙伝『風雪のあゆみ』(1989年、コミンテルン第7回大会のころまでのことを書いている)を完成させ、1992年には生誕100年ということで、黒柳徹子との親交から「徹子の部屋」にも出演したり、NHK教育テレビジョンで特集が組まれたこともあった。 しかし、その直後の『週刊文春』9-11月の連載が元となり、調査の結果ソ連のスパイだったとして、1992年9月20日に日本共産党名誉議長を解任された。さらに同年12月27日の党中央委員会総会において、日本共産党からの除名処分が決定された。これはソビエト連邦の崩壊後、公文書が情報公開され、野坂が1939年にアメリカ合衆国からコミンテルンのディミトロフへ送った手紙が明らかになったことによる。野坂はソ連にいた日本人同志の山本懸蔵(1895-1939年)ら数名をNKVDに讒言密告し、この結果山本はスターリンによる大粛清の犠牲となったのである。名誉議長解任時点では日本共産党は、高齢の野坂に対して「党としてひきつづき必要な配慮をはらう」としていたが、その後の除名処分により「配慮」も打ち切りとなった。 野坂は「残念ながら事実なのでこの処分を認めざるを得ない」と述べた以外はこの件について語らず、1993年11月14日に死去した。参議院では慣例に従い、永年在職議員表彰者であった野坂に弔詞を贈呈したが、日本共産党はこれに反発し、弔詞の議決とその朗読の間は参議院本会議を欠席した。
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