最晩年と最期
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/01 16:17 UTC 版)
天保8年(1837年)4月、次男・家慶に将軍職を譲っても幕政の実権は握り続けた(大御所時代)。最晩年は老中の間部詮勝や堀田正睦、田沼意正(意次の四男)を重用している。 天保12年(1841年)閏1月7日に死去した。享年69。 栄華を極めた家斉であったが、最期は放置されたままに息を引き取ったと伝えられ、侍医長・吉田成方院は責任を問われ処罰された(『井関隆子日記』)。なお、死亡日は『井関隆子日記』には閏1月7日と記されているが、『続徳川実紀』は「閏1月30日」としており、幕府が死を秘匿したと考えられている。 家斉の死後、その側近政治は幕政の実権を握った水野忠邦に否定されて、旗本・若年寄ら数人が罷免・左遷される。そして間部詮勝や堀田正睦などの側近は忠邦と対立し、老中や幕府の役職を辞任する事態となった。
※この「最晩年と最期」の解説は、「徳川家斉」の解説の一部です。
「最晩年と最期」を含む「徳川家斉」の記事については、「徳川家斉」の概要を参照ください。
- 最晩年と最期のページへのリンク