最晩年と崩御
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/02 05:12 UTC 版)
「ジョージ4世 (イギリス王)」の記事における「最晩年と崩御」の解説
ジョージ4世の大酒飲みと放蕩な生活は1820年代末には彼の健康を蝕んだ。プリンス・オブ・ウェールズであった頃でもすでに大型な宴会とおびただしい量の酒飲みにより肥満体になっており、そのため数少ない公的な場への出席ではたびたび笑いものにされた。1797年には体重が17ストーン7ポンド(約111キログラム)に達しており、1824年に作られたコルセットではウエストが50インチ(約130センチメートル)だった。彼は痛風、動脈硬化症、浮腫に苦しみ、ポルフィリン症を患っていた可能性もあった。晩年には一日のほとんどをベッドで過ごし、呼吸困難の発作をおこしては窒息になっていた。 1828年12月には父のジョージ3世と同じく、白内障によりほぼ全盲になり、また右手の痛風の病状が進んで文書への署名もできなくなった。1829年中、デイヴィッド・ウィルキーはジョージ4世が「毎日を恐ろしく過ごして時間を浪費」したと記し、またジョージ4世が太くて「巨大なソーセージが覆いに詰め込まれたようだ」とも記述した。ジョージ4世が膀胱の痛みを我慢するためにアヘンチンキを服用した結果、彼は薬漬けになり、精神的に障害のある状態が何日も続く結果となった。1829年には白内障により手術を受けた。1830年時点の体重は20ストーン(約130キログラム)だった。 1830年春にはジョージ4世の先が長くないことが明らかになった。浮腫による呼吸困難のため、彼は横にならず座って寝なければならず、医者たちは彼の腹を頻繁にたたいて過剰な液体を排除しなければならなかった。彼は身体の衰弱にもかかわらず、生きることに頑強にしがみついたことを称賛された。彼は5月に遺言状を定め、寿命の残り数か月の間信心深くなり、大助祭の1人に懺悔した。彼は大助祭に、以前の放蕩な生活を後悔しているが、臣民たちのために常に最善を尽くしたとして慈悲を乞うた。1830年6月26日の朝3時半頃、彼はウィンザー城において「おお神よ、これはなんでしょう?」と叫んだとされ、続いて給仕の手を握り締めて「坊や、これが死だ」と言って崩御したという。解剖の結果、死因が胃血管破裂による上部消化管出血であることが判明した。「オレンジの大きさ」のある巨大な腫瘍が膀胱についていたことも同時にわかり、また心臓が大きく、弁が石灰化した上に多量の脂肪がついていた。ジョージ4世は7月15日にウィンザー城のセント・ジョージ礼拝堂(英語版)で埋葬された。 ジョージ4世の唯一の嫡出子でシャーロット・オーガスタ・オブ・ウェールズは1817年に死産した後に分娩後合併症(英語版)により薨去した。ジョージ3世の次男ヨーク・オールバニ公フレデリックも1827年に子供なくして薨去したため、ジョージ3世の三男クラレンス公ウィリアムがウィリアム4世として即位した。
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