水師営の会見
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/08 19:20 UTC 版)
旅順要塞を陥落させた後の明治38年(1905年)1月5日、乃木は要塞司令官ステッセルと会見した。この会見は水師営において行われたので、水師営の会見といわれる。会見に先立ち、明治天皇は、山縣有朋を通じ、乃木に対し、ステッセルが祖国のため力を尽くしたことを讃え、武人としての名誉を確保するよう命じた。 これを受けて、乃木は、ステッセルに対して極めて紳士的に接した。通常、降伏する際に帯剣することは許されないにもかかわらず、乃木はステッセルに帯剣を許し、酒を酌み交わして打ち解けた。乃木は従軍記者たちの再三の要求にもかかわらず会見写真は一枚しか撮影させず、ステッセルらロシア軍人の名誉を重んじた。 敵将(ステッセル)に失礼ではないか後々まで恥を残すような写真を撮らせることは日本の武士道が許さぬ こうした乃木の振る舞いは、旅順要塞を攻略した武功と併せて世界的に報道され賞賛された。後にこの会見を題材とした唱歌『水師営の会見』が作られ、日本の国定教科書に掲載された。 乃木は、1月13日に旅順要塞に入城し、1月14日、旅順攻囲戦において戦死した将兵の弔いとして招魂祭を挙行し、自ら起草した祭文を涙ながらに奉読した。その姿は、日本語が分からない観戦武官および従軍記者らをも感動させ、彼らは祭文の抄訳を求めた。
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