その他石碑
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乃木大将夫妻像の碑 乃木神社50年祭となる昭和37年(1962年)9月3日に大洋漁業(現マルハ)、林兼造船、林兼産業により建てられた。左が乃木希典で右が妻静子。銅像は竹内不忘によるもので、碑文は岸信介により書かれた。 乃木将軍銅像建設記念燈 - 画像 覚苑寺入口前方にある灯篭。昭和7年(1932年)9月に建てられたもので、「乃木将軍銅像建設記念燈」と書かれている。 高杉晋作回天義挙銅像解説碑 - 画像 功山寺輪蔵横の高杉晋作が乗馬している銅像の隣にある解説碑。長府博物館友の会会長の続渉の500万円の寄付のもと、昭和47年(1962年)12月15日に建てられた。撰文したのも続渉である。銅像の隣にはこの解説碑のほか、「像建設実行委員」の碑があり、95名の名前が書かれている。なお、この銅像は解説碑と同時に建てられたわけではなく、それよりも前にみもすそ川の旅館「みもすそ川別館」にあったものを移したものである。 狩野芳崖先生像の碑 覚苑寺中央左側にある石碑で狩野芳崖先生像とともにある。銅像を製作したのは下関市出身の彫刻家、中村辰治。大正12年(1923年)11月5日に建てられた銅像は金属類回収令により回収され、現在のこの銅像は昭和54年(1979年)11月4日に再建されたものである。 乃木希典銅像及び歌碑 乃木希典の銅像は前述の通り乃木神社にもあるが、覚苑寺の墓地入口にも台座の歌碑とともに設置されている。歌碑に書かれている「武士は 玉も黄金も なにかせむ いのちにかへて 名こそをしけれ」という和歌は乃木希典自身が詠ったものである。現在立っている銅像及びその台座にある歌碑は昭和33年(1958年)11月11日に建てられたものであって、覚苑寺の住職、進藤端堂が昭和14年(1939年)4月に設置した方の銅像・歌碑は金属類回収令により一度回収されてしまった。その後、乃木希典銅像の方は回収されたものの戦後戻ってきたため、それを再建したのが現在のものである。ただし、歌碑の方はもともとあった「大君の 御盾にならん 身にしあれば みがかさらめや 日本(やまと)こころを」の歌碑が戻ってこなかったため現在の歌碑に変わってしまった。 萬骨塔の碑 - 画像 長門尊攘堂隣の万骨塔前にある万骨塔についての解説碑。碑文は桂弥一が書き、昭和8年(1933年)10月に建てられた。 不許葷酒入山門(くんしゅさんもんにいるをゆるさず)の碑 - 画像 功山寺総門前階段右側にある石碑。「くさみのある野菜と酒は修行の邪魔だから門より先には入るな」という意味であり、功山寺以外でも各地の禅宗寺院で見られる。この石碑の裏には「七卿遺蹤地 功山寺」と刻まれている。実際、過去には総門の左側にこちらを表にして建てられていたのだが、そうなると石碑の向きとしては門から葷酒が出ていくような向きであった。それが原因なのかは定かではないが、この石碑は総門の右側に設置され、「不許葷酒入山門」が表向きとなった。 田上菊舎の句碑 - 画像 功山寺山門前左側にある。この句碑に書かれている「鐘永る 夜や父母の おもわるる」は菊舎自身が全国行脚の途中、日光で詠んだものである。昭和48年(1973年)11月14日に長府観光協会によって建てられた。 雑賀以空の句碑 - 画像 覚苑寺入口前方右にある句碑で「而して 桜は塵と なりにけり」とある。和同吟社という俳句の同人組織により昭和10年(1935年)に建てられた。雑賀以空は医師・俳人であり、都々逸や小唄なども歌っていた。号は「喃亭骨茶(なんてこつちゃ)」。 生田蝶介の歌碑・面刻碑 - 画像 覚苑寺本堂左横にある生田蝶介の歌碑と面刻碑。面刻碑の方は門下生らが生田蝶介が死去する1日前である昭和51年(1976年)5月2日にもとあった歌碑の横に建てたものである。生田蝶介は長府生まれであるうえ、覚苑寺の元住職、進藤端堂の甥であるために覚苑寺に面刻碑が建てられた。なお、ここでは著作権の問題上、歌碑に書かれた歌は掲載しない。 烈女佐津碑 - 画像 本覚寺に入った後に左に見える石碑。加賀見山旧錦絵の登場人物、お初のもとになった松田さつについて書かれている。松田さつは元禄14年(1701年)3月3日誕生といわれているが死亡年月日についてはさまざまな説があり定かではない。松田さつの墓はこの本覚寺にもあるが、ここ以外にも3か所あり、島根県浜田市宝福寺、神奈川県平塚市廃・広蔵寺、千葉県多古町妙興寺がその3か所といわれる。 和敬の碑 - 画像 功山寺山門前右側にある「和敬」と表に書かれた石碑。昭和59年(1984年)3月31日に建てられた。茶筅塚で、茶道の言葉である和敬清寂に由来する。 天長地久の碑 - 画像 長府図書館横にあり、「天長地久」とだけある。詳細不明。 水師営の会見の歌の碑 - 画像 かつては文部省唱歌に選ばれていた「水師営の会見」の歌の石碑。碑文上部は楽譜で碑文下部は歌詞が書かれている。作詞は佐佐木信綱で実際に水師営で乃木希典とステッセルの会見を聞いていた。水師営とは旅順北西部にある中国の地名。水師営の会見所には弾丸跡のあるナツメの木があったという話もこの歌に書かれている。 梅井の碑 - 画像 乃木希典旧邸にあった「梅井」という井戸が説明された石碑。乃木希典は幼少期に寒い時に梅井の冷水を親にかけられ、自分を鍛えるために自分からも被るようになったという話が残っている。 誰知吾の碑 - 画像 元長府博物館講堂前にある五輪塔に似た形をした石碑で「誰知吾」と書かれている。昭和38年(1963年)10月20日に長府博物館30周年の記念として建てられた。この石碑の中には遺品として、長府博物館運営に貢献した椿惣一元館長の万年筆と井上勝一の舞扇が入っている。「誰知吾」とは二人が石碑の名前を決めるときに「名前があると困るがなくても困る」ため「誰か吾を知らん」になったといわれている。 誰知吾の碑の隣にある四角形の石碑は「海石榴(つばき)館」と書かれており、海石榴館というのは講堂の名前である。
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その他石碑
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ここではこの記事内では関連付けて挙げられなかった石碑について説明する。 環境衛生厚生大臣賞受賞記念碑 彦島迫町にある記念碑で昭和36年(1961年)に環境衛生厚生大臣賞の受賞を記念して昭和37年(1962年)に建設された。この受賞のきっかけとなったのは昭和25年(1950年)頃から起こった伝染病であり、対策として蚊やハエが居なくなるように又見順太郎を中心に環境美化活動が行われた。以下は記念碑文だが閲覧機種によって泰の異体字が〿のようになる場合がある。 環境衛生厚生大臣賞受賞記念 下関市長福田𭰣三 昭和三十四年度 下関市長賞 昭和三十五年度 山口県最優秀地区賞 昭和三十六年度 厚生大臣賞 昭和三十七年五月 建立責任者 植田五作 山本浅雄 天皇陛下皇后陛下行幸啓記念碑 彦島水門にある記念碑で第18回国民体育大会のときに昭和天皇と香淳皇后の行幸・行啓記念として立てられた。石碑には天皇陛下皇后陛下行幸啓記念、と昭和三十八年十月二十九日、とだけ書かれている。
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