その他石碑とは? わかりやすく解説

その他石碑

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/17 04:41 UTC 版)

長府」の記事における「その他石碑」の解説

乃木大将夫妻像の碑 乃木神社50年祭となる昭和37年1962年9月3日大洋漁業(現マルハ)、林兼造船林兼産業により建てられた。左が乃木希典で右が妻静子銅像竹内不忘よるもので、碑文岸信介により書かれた。 乃木将軍銅像建設記念燈 - 画像 覚苑寺入口前方にある灯篭昭和7年1932年9月建てられたもので、「乃木将軍銅像建設記念燈」と書かれている高杉晋作回天義挙銅像解説碑 - 画像 功山寺輪蔵横の高杉晋作乗馬している銅像の隣にある解説碑。長府博物館友の会会長の続渉の500万円寄付のもと、昭和47年1962年12月15日建てられた。撰文したのも続渉である。銅像の隣にはこの解説碑のほか、「像建設実行委員」の碑があり、95名の名前が書かれている。なお、この銅像解説碑と同時に建てられたわけではなくそれよりも前にみもすそ川の旅館「みもすそ川別館にあったものを移したのである狩野芳崖先生像の碑 覚苑寺中央左側にある石碑狩野芳崖先生とともにある。銅像製作したのは下関市出身彫刻家中村辰治。大正12年1923年11月5日建てられ銅像金属類回収令により回収され現在のこの銅像昭和54年1979年11月4日再建されたものである乃木希典銅像及び歌碑 乃木希典銅像前述通り乃木神社にもあるが、覚苑寺墓地入口にも台座歌碑とともに設置されている。歌碑書かれている武士は 玉も黄金なにかせむ いのちにかへて 名こそをしけれ」という和歌乃木希典自身が詠ったものである。現在立っている銅像及びその台座にある歌碑昭和33年1958年11月11日建てられたものであって覚苑寺住職進藤端堂が昭和14年1939年4月設置した方の銅像歌碑金属類回収令により一度回収されてしまった。その後乃木希典銅像の方は回収されたものの戦後戻ってきたため、それを再建したのが現在のものである。ただし、歌碑の方はもともとあった「大君の 御盾にならん 身にしあれば みがかさらめや 日本(やまと)こころを」の歌碑戻ってこなかったため現在の歌碑変わってしまった。 萬骨塔の碑 - 画像 長門尊攘堂隣の万骨前にある万骨塔についての解説碑。碑文弥一書き昭和8年1933年10月建てられた。 不許葷酒入山門くんしゅさんもんにいるをゆるさず)の碑 - 画像 功山寺総門階段右側にある石碑。「くさみのある野菜と酒は修行邪魔だから門より先には入るな」という意味であり、功山寺以外でも各地禅宗寺院見られる。この石碑の裏には「七卿遺蹤地 功山寺」と刻まれている。実際過去には総門左側にこちらを表にして建てられていたのだが、そうなる石碑向きとしては門から葷酒出ていくような向きであった。それが原因なのかは定かではないが、この石碑総門右側設置され、「不許葷酒入山門」が表向きとなった田上菊舎句碑 - 画像 功山寺山門前左側にある。この句碑書かれている「鐘永る 夜や父母の おもわるる」は自身全国行脚途中日光詠んだのである昭和48年1973年11月14日長府観光協会によって建てられた。 雑賀以空の句碑 - 画像 覚苑寺入口前方右にある句碑で「而して は塵と なりにけり」とある。和同吟社という俳句同人組織により昭和10年1935年)に建てられた。雑賀以空は医師俳人であり、都々逸小唄なども歌っていた。号は「喃亭骨(なんてこつちゃ)」。 生田蝶介歌碑・面刻碑 - 画像 覚苑寺本堂左横にある生田蝶介歌碑と面刻碑。面刻碑の方は門下生らが生田蝶介死去する1日前である昭和51年1976年5月2日にもとあった歌碑の横に建てたのである生田蝶介長府生まれであるうえ、覚苑寺の元住職進藤端堂の甥であるために覚苑寺に面刻碑が建てられた。なお、ここでは著作権の問題上、歌碑書かれた歌は掲載しない。 烈女佐津碑 - 画像 本覚寺入った後に左に見え石碑加賀見山旧錦絵登場人物お初のもとになった松田さつについて書かれている松田さつは元禄14年1701年3月3日誕生といわれているが死亡年月日についてはさまざまな説があり定かではない松田さつの墓はこの本覚寺にもあるが、ここ以外にも3か所あり、島根県浜田市宝福寺神奈川県平塚市廃・広寺、千葉県多古町妙興寺その3か所といわれる和敬の碑 - 画像 功山寺山門前右側にある「和敬」と表に書かれ石碑昭和59年1984年3月31日建てられた。茶筅塚で、茶道言葉である和敬清寂由来する天長地久の碑 - 画像 長府図書館横にあり、「天長地久」とだけある。詳細不明水師営の会見の歌の碑 - 画像 かつては文部省唱歌選ばれていた「水師営の会見」の歌の石碑碑文上部楽譜碑文下部歌詞書かれている作詞佐佐木信綱実際に水師営乃木希典ステッセル会見聞いていた。水師営とは旅順北西部にある中国の地名水師営の会見所には弾丸跡のあるナツメの木があったという話もこの歌に書かれている梅井の碑 - 画像 乃木希典旧邸にあった梅井」という井戸説明され石碑乃木希典幼少期に寒い時に梅井冷水を親にかけられ自分鍛えるために自分からも被るようになったという話が残っている。 誰知吾の碑 - 画像長府博物館講堂前にある五輪塔似た形をした石碑で「誰知吾」と書かれている昭和38年1963年10月20日長府博物館30周年記念として建てられた。この石碑中には遺品として、長府博物館運営貢献した椿一元館長万年筆井上勝一の舞扇入っている。「誰知吾」とは二人石碑の名前を決めるときに「名前があると困るがなくても困る」ため「誰か吾を知らんになったといわれている。 誰知吾の碑の隣にある四角形石碑は「海石榴(つばき)館」と書かれており、海石榴館というのは講堂の名前である。

※この「その他石碑」の解説は、「長府」の解説の一部です。
「その他石碑」を含む「長府」の記事については、「長府」の概要を参照ください。


その他石碑

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/07 22:36 UTC 版)

彦島」の記事における「その他石碑」の解説

ここではこの記事内では関連付け挙げられなかった石碑について説明する環境衛生厚生大臣受賞記念碑 彦島迫町にある記念碑昭和36年1961年)に環境衛生厚生大臣賞の受賞記念して昭和37年1962年)に建設された。この受賞きっかけとなったのは昭和25年1950年)頃から起こった伝染病であり、対策としてハエが居なくなるように又見順太郎中心に環境美化活動が行われた。以下は記念碑文だが閲覧機種によって泰の異体字が〿のようになる場合がある。 環境衛生厚生大臣受賞記念 下関市長福田𭰣三 昭和三十四年度 下関市長賞 昭和三十五年度 山口県最優秀地区昭和三十六年度 厚生大臣昭和三十七年五月 建立責任者 植田五作 山本浅雄 天皇陛下皇后陛下行幸啓記念碑 彦島水門にある記念碑第18回国民体育大会のときに昭和天皇香淳皇后行幸行啓記念として立てられた。石碑には天皇陛下皇后陛下行幸啓記念、と昭和三十八年十月二十九日、とだけ書かれている

※この「その他石碑」の解説は、「彦島」の解説の一部です。
「その他石碑」を含む「彦島」の記事については、「彦島」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「その他石碑」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「その他石碑」の関連用語


2
0% |||||

3
0% |||||

その他石碑のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



その他石碑のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの長府 (改訂履歴)、彦島 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS