開拓使出仕から晩年
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降伏後は東京で2年半獄中生活を送り、「英和対訳辞書」を完成させる。死刑を免れて榎本らと共に開拓使の役人として新政府に出仕。1872年に開拓使仮学校校長心得を勤める。ワッソンらと北海道の三角測量を行う。 明治10年(1877年)、内務省地理局配属。全国大三角測量計画を計画。 1877年の東京数学会社の創立時の社員。 気象学・翻訳に励み、後に明治20年(1887年)に新潟県の永明寺山(現在の三条市)において皆既日食の観測を行う観測隊を率い、観測隊に参加した杉山正治が日本で初めて太陽コロナの写真撮影を成功させている。明治23年(1890年)8月には初代中央気象台長に就任。 明治42年(1909年)、糖尿病がもとで永眠。享年74。息子の荒井陸男は画家となり、絵画館に収蔵されている『水師営の会見』などの作品をのこした。荒井郁之助の墓石は祥雲寺にある。
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