開拓使女学校→札幌女学校
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「札幌農学校」の記事における「開拓使女学校→札幌女学校」の解説
明治5年9月19日(1872年10月21日)、開拓使仮学校内に女学校を開設した。学生は官費生50名(うち札幌本庁管内から9人、函館支庁管内から6人)であった。教師としてオランダ人女性教師2名が雇われ、「語学筆算地理学史学婦人ノ手業」などヨーロッパの小学生一般の学科が教えることとなった。 1873年(明治6年)4月に「入校証書」が示されると、卒業後5年間開拓使に勤務することや、北海道在籍者と結婚することを義務付ける文面であったために、生徒の動揺が激しく転学者が相次いだ。さらに1874年(明治7年)に札幌へ移転することが決定されたが、おりしも腸チフスの発生による学校閉鎖中であったこともあり、生徒・教員の間に混乱が発生し、退学者・退職者が続出した。 1875年(明治8年)8月24日、札幌の脇本陣(現在の札幌市中央区南1条西3丁目)に移転し「札幌女学校」と改称した(生徒35人)。しかし、女子生徒と官員とのスキャンダルなどが発生したことから、開拓大判官松本十郎は「卒業生を出しても用いるところがなく、万事整っていない北海道に女学校は時期尚早である」(大意)と建言した。これを受け、1876年(明治9年)5月2日に札幌女学校は廃校となった。 卒業生に広瀬常(のち森有礼の妻)らがいる。一時在籍者としては堀川トネ(函館出身、のちにジョン・ミルンの妻)、廃校により他校に移った者に平岡龍子(のちに銀座教会伝道師)がいる。教師には篠田雲鳳(女性漢詩人)がいた。
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