開拓使女学校→札幌女学校とは? わかりやすく解説

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開拓使女学校→札幌女学校

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/11 13:46 UTC 版)

札幌農学校」の記事における「開拓使女学校→札幌女学校」の解説

明治5年9月19日1872年10月21日)、開拓使仮学校内に女学校開設した学生官費50名(うち札幌本庁管内から9人、函館支庁管内から6人)であった教師としてオランダ人女性教師2名が雇われ、「語学筆算地理学史婦人手業」などヨーロッパ小学生一般学科教えることとなった1873年明治6年4月に「入校証書」が示されると、卒業5年開拓使勤務することや、北海道在籍者結婚することを義務付ける文面であったために、生徒動揺激しく転学者が相次いだ。さらに1874年明治7年)に札幌移転することが決定されたが、おりしも腸チフス発生による学校閉鎖であったこともあり、生徒教員の間に混乱発生し退学者・退職者続出した1875年明治8年8月24日札幌脇本陣現在の札幌市中央区南1条西3丁目)に移転し札幌女学校」と改称した生徒35人)。しかし、女子生徒官員とのスキャンダルなどが発生したことから、開拓大判官松本十郎は「卒業生出して用いるところがなく、万事整っていない北海道女学校時期尚早である」(大意)と建言した。これを受け、1876年明治9年5月2日札幌女学校廃校となった卒業生広瀬常(のち森有礼の妻)らがいる。一時在籍者としては堀川トネ函館出身、のちにジョン・ミルンの妻)、廃校により他校移った者に平岡龍子(のちに銀座教会伝道師)がいる。教師には篠田女性漢詩人)がいた。

※この「開拓使女学校→札幌女学校」の解説は、「札幌農学校」の解説の一部です。
「開拓使女学校→札幌女学校」を含む「札幌農学校」の記事については、「札幌農学校」の概要を参照ください。

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