開拓使時代
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1874年(明治7年)3月大鳥圭介が英米留学から帰国して開拓使に着任すると、5月23日東京出張所物産課に絵図写字係として雇われ、7月から11月まで大鳥に従い北海道の炭鉱等を視察し、帰京後「各所見取図」を製作した。 1875年(明治8年)1月14日同僚窪田将房と共にベンジャミン・スミス・ライマンの製図補助を命じられ、2月札幌で地質調査に従事した。1875年(明治8年)4月刊『日本北海道山越内石油地方略測之地質及び地理的の図』に名が見える。同年ヘンリー・スミス・マンローが地図作成に牧野の使用を希望するも、ライマンに断られている。 1876年(明治9年)頃帰京して、東京出張所内仮博物場画掛となり、6月頃から若林友恭とトーマス・ブラキストン所蔵鳥類標本の模写に従事し、同時にモルレー・S・デイの測量地図にも携わった。1877年(明治10年)開拓使が道産物による缶詰事業を計画し、化粧紙印刷のため開拓使勧業課と大蔵省紙幣局の間を往復した。1879年(明治12年)頃にはジョサイア・コンドル設計の物産売捌所建設に際し、カーテンやテーブルクロス等の内装に関わった。 1880年(明治13年)6月19日仮博物場専務外を命じられ、1881年(明治14年)5月21日東京出張所廃止に伴い札幌に転勤となった。開拓使廃止後も残務取扱所に残留し、1882年(明治15年)3月18日解雇となった。1883年(明治16年)7月9日病没した。
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