行き倒れの死
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/24 03:35 UTC 版)
長年消息不明となった後、明治25年(1892年)9月25日、神戸市葺合村六軒道の路上で、所持品もなく、木綿シャツ1枚とほとんど裸の状態で倒れているところを警邏中の巡査に発見される。名前を尋ねられ、一旦「鹿児島県大隅国日当山33番地、川畑栄蔵」と偽名を名乗った後、再度問われ、「鹿児島塩屋村、村橋久成。妻はしゅう、長男は定太郎。村橋周右衛門、新納主税という親戚がいる」と名乗り倒れる。施療院に運び込まれたものの、9月28日死去。享年50。死因は肺結核および心臓弁膜病。 翌日、神戸墓地に仮埋葬される。神戸市役所で鹿児島に照会したものの該当者は無く、半月後の10月12日、神戸又新日報に行旅死亡人の広告が載せられた。そして10月18日には東京の新聞『日本』が「英士の末路」と題して、村橋の死を報じた。 新聞で村橋の死を知った黒田清隆は、神戸から遺体を東京に運び、10月23日、自ら葬儀を行った。遺体の搬送は開拓使時代の部下であった加納通広と村橋の次男・圭二が行い、葬儀には、黒田のほか、湯地定基(貴族院議員)、佐藤秀顕(逓信大臣秘書官)らが参列。陸奥宗光(外務大臣)、堀基(前北海道炭礦鉄道社長)、長谷部辰連(貴族院議員)、小牧昌業(奈良県知事)、調所広丈(鳥取県知事)、鈴木大亮(逓信次官)、永山武四郎(屯田司令官)、仁礼景範(海軍大臣)など、錚々たる面々が香典を出している。
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